仲田修子話  10

他にはこんな楽しみがあった。それは映画鑑賞 前にも触れたが品川の街にはそこだけで映画館が三軒もあった。当時はまだテレビが普及する前・・・ちなみに一般家庭にテレビが普及したのは昭和 33年の当時の皇太子と美智子さんのご成婚がきっかけだと聞いている だからそれまでは映画はまさに黄金時代で東宝、日活、松竹、大映、東映など各社がどんどん新作を発表それを観に多くの人が映画館に詰めかけた そこらへんの雰囲気は以前公開された「ALWAYS三丁目の夕陽」中でも紹介されている

修子もやはりたびたび映画館に通っていた  特にお気に入りだったのが東映の時代劇だった

映画を観ることには親も全く反対しなかった。お小遣いのほかに映画館に行く時にはそのお金も出してくれた ただしその時は必ず観に行きたい映画のタイトルを告げるというルールがあった
ある日その映画のタイトルを言うと親は「それはダメ」と言う
そのタイトルは「肉体の門」修子はなぜそれがダメと言われたのか「肉体」がダメなのか「門」がダメなのか頭を絞って考えてみたが当時はまったく解らなかったと言う

さて、品川というかなり特殊な街でまたかなり特殊な育ち方をした特殊な少女、修子の家庭ってどんな家だったのだろう。母親は相変わらずのダメ母ぶりを発揮していた 料理なんか相変わらずろくにしない たまに何か作るとそれが途方もなく不味い・・・ある日「サバの味噌煮」を作ったがそれを食べて修子はトラウマになるくらいサバの味噌煮が嫌いになってしまった その後どこかでちゃんとした味噌煮を食べてあまりに旨いのでびっくりした
父親はこれもまたちょっと変わった人で修子のことは可愛がっていたが、彼女が生まれつきちょっとX脚なのをひどく気にしてしいて正座になることを禁止したり家の中を毎日歩かせたりと一生懸命彼女の容姿を良くしようと努めていた
一方でものすごい教育パパでもあった まだ小学生低学年だった修子や弟に「アインシュタインの相対性理論」を教えたり「永久運動装置を考えてみろ」という課題を修子たちに与えてそれを苦心して考えて見せると「これはここのところがダメ」とか言ってとにかく考えるという習慣を彼女たちに付けさせるようにしていた 父親は彼自身大学を出てないので「とにかく一生懸命勉強して大学を出てキューリー婦人みたいな人になれ」というのが口癖だった
そういうわけで小学生から相対性理論なんかを吹き込まれていた修子はかえって小学校の授業はなんだかピンと来なくなってしまった 低学年のころ勉強が出来なかったのにはそういう原因があったのかも知れない

一方でそういうエリート教育を受けながら修子は相変わらずぶっ飛んだ娘だった 小学校の高学年になった頃、お酒の味を覚えてしまい「なんて美味しいんだろう」とすっかりはまってしまい親に内緒でちょこちょこ飲んでいた。しかも「酒盗」なんかをつまみながらである 酒を呑むとちょっといい気分になるのだが決して酔うことはなかった ある日「こんな美味しいものを一人で飲んでるのは勿体無い」と思い立ち、近所に住んでる従弟たちを集め(当時彼女の家の近所に親戚が何軒もあった)「甘酒を飲ませてやる」と言って酒粕を日本酒で割ってそれに砂糖を入れてかき混ぜ従弟たちに飲ませた すると彼らは気持ちよくなるどころではなく次々に「苦しい」と言いながらバタバタと倒れてしまった それを見て「何故なんだろう」ときょとんとする修子だった

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