ギターギター 71

それはビルが一度出演したあるコンサート「From Spirituals to Swing」の経験が元でした

このコンサートは音楽プロデューサーの「ジョン・ハモンド John Henry Hammond II」が開いたコンサートでタイトルどおり黒人のスピリチュアルからジャズまでを一気に公開するという形で1938年12月にカーネギーホールで開かれました 当初ジョンは「ロバート・ジョンソン」をブルースマン代表として出演させようと計画していたのですが、このときすでにジョンソンは殺されていたのでその”代役”としてビルが抜擢されたのだといいます

そのコンサートで今まで自分が出会ったことのなかった多くの白人の聴衆たちからおおいにいい反応を得たビルはやがてこういう人たち向けに演奏するようになります

それはまさに50年代に入った頃・・・シカゴではビルたちのスタイルが段々と見向きもされなくなっていくのとあわせるように白人たちの前にアコースティックギター1本で現れ昔のカントリーブルース→”フォークブルース”を演奏する

こういうスタイルで活動しはじめたビルは当時の「フォークリバイバルブーム」にもうまく乗り、多くの白人の観客の前で演奏することになり、ヨーロッパにまで演奏に出かけました


こういう彼の行動を苦々しく思う人たちが居ました

それは多くの「民族音楽(フォーク)評論家」たちです 彼らの目からみれば伝統的なブルースの流れを無視して”商業ベース”にのっかった日和見ブルースマンだ・・・という風に見られたビルは彼らからかなりバッシングを受けました 日本でも元々ブルースを「民俗音楽」としか捉えられない「中村とうよう」などの評論家がそれこそビルのこういったところを「ダメなブルースマン」と一蹴していて、当時は私もなんとなくそう思っていました

しかし、中村氏は「B・B・キング」のことも「大衆に迎合したミーハーなブルースマン」というような捉え方をしていたのです

今になると私はこう思うようになりました 「ビッグ・ビルはプロのミュージシャンだ プロは食えてなんぼのもので、もし彼がそういう道を取らなければその時点で確実に音楽シーンから消えてゆき、ギターを手にすることも出来ないだけでなく、家族を満足に食わせることもできなかったはずだ。プロのミュージシャンだったら多少の妥協はしたとしても生きる道を選ぶだろう」・・・ここに残っている当時のビルの家族たちとの写真があります これを見てもかなりの大所帯だったことがわかりますね

実際この時期のビルの演奏を観たり聴いたりした中から多くのインスパイアを受けた白人の若者たちがその後自分達の音楽にそのエッセンスを加えていったことは紛れもない事実だと思います

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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