僕のブルースマン列伝 5

さて、今日のブルースマンは スリーピー・ジョン・エスティス 

またWikipediaから引用すると

スリーピー・ジョン・エスティス (Sleepy John Estes ) は、テネシー州出身のカントリー・ブルースシンガーギタリストである。泣きの声とも称される絞り出すようなヴォーカル・スタイルが特徴。また多くのレコーディングに参加したヤンク・レイチェルのマンドリン、ハミー・ニクソンのハーモニカの音色も、エスティスのサウンド形成に大きく寄与した。6歳のころ、野球をしていた際に友人の投げた石が目に当たるという事故に見舞われ、右目を失明。もう一方の目にも障害が残る。やがて幼いエスティスは音楽に興味を持つようになり、父親よりギターを習う。自分で空き缶などからギターを自作し、人前で演奏するようになってい1934年エスティスはシカゴへ移住。翌年ハミー・ニクソンとともにデッカ・レコードのセッションに臨んだ。これ以降、頻繁にレコーディングをするようになり、徐々に人気も得るようになった。1937年1938年には、ニューヨークでのレコーディングも経験している。

その後も活動は続くが、カントリー・ブルースの人気が下火になったのを受け、1941年のブラウンズヴィルでのセッションを最後に、彼は音楽活動から身を引いた。故郷ブラウンズヴィルで再び小作人としての生活に戻ったとされている

1962年、エスティスはカントリー・ブルースの人気が再燃する中で研究者たちによって”再発見”され、再び演奏活動をするようになった。この頃には、彼は以前は見えていた左目の視力も失い、全盲となっていた。彼はニューポート・フォーク・フェスティバルなどに出演し、デルマーク・レコードから新作アルバムも発表した。1964年Broke and Hungryには、デビュー前のマイク・ブルームフィールドが参加している。1964年1968年には、ヨーロッパ・ツアーも行った。

そして僕にとってははじめてアルバムを買った、そしてはじめて生で演奏を観たブルースマンでもある 彼のアルバムのインプレッションについては「僕の吉祥寺話6」で触れてるのでここでは省略するが、なんといっても彼が初来日した1974年の「第1回ブルース・フェスティバル」の記憶は今でも鮮明だ

このコンサートはもう「伝説」になってるが、この時の顔ぶれは「スリーピー・ジョン・エスティス&ハミー・ニクソン」そして「ロバート・ロックウッドwith ACES」だった ロックウッドのことはまた後日触れることにして・・・さあ、日本に初めてやってきた本物のカントリーブルースマンはどうだった?

今でも覚えてるシーン このコンサートのプロデューサーでもあった中村とうよう がちょっと興奮気味に彼らの名前を呼ぶ・・・ステージの緞帳が上がる・・・するとそこにすでに「板つき」でスタンバイしていたジョンとハミーがすかさず演奏を始める 最初の曲はもう「ブルースのクラシックと言ってもいい名曲「コリーナ・コリーナ」だった

その二人の姿を見た瞬間、感動もだが僕がまず思ったのはエスティスの顔を見て「黒い!」

そりゃ黒人だから黒いに決まってるが彼の顔はまるで石炭のように真っ黒だった

そしてギターをかなりパワフルにブンブンかき鳴らしながらものすごく張りのある艶やかな声で朗々と歌ったのだ それまでアルバムなんかで聴いていた弱々しさとか枯れた感じはまったくなかった 僕が彼に対して持っていたイメージはもうしょっぱなで全く崩れてしまった

そして隣でハープを吹くハミーニクソン エスティスに比べるとかなりの巨体でハープを吹き持ちかえでジャグもカズーも吹きコーラスもやりとにかくせわしく動きすごく表情豊かに演奏し、そして曲の間のMCもすべて彼が担当 とても愛嬌たっぷりに実に流暢に話す

そして、その間・・・曲が終わると当のエスティスはまるでスィッチが切れたようにがっくりとうなだれて動かない・・・え、大丈夫なのか? と観ているほうが心配になるのだが、ハミーが「じゃあ次の曲はナントカカントカ」と言ってハープを口にあてた瞬間、がばっと起き上がりすごくパワフルに演奏して終わるとまた「ガクッ」・・・このくりかえしだった

でも、この時のエスティスは本当に元気だった そして相棒ハミーとの絶妙なコンビネーションと演奏 それはブルースマンとしても戦前のアメリカ南部で本当にばりばりで活動していた「芸人」なんだなあということも含めて僕らに見せてくれたと思う

エスティスたちはよほど日本での受けの良さが嬉しかったようでその後1976年12月にに再来日 その時の映像がこれだ!

その時は当時人気絶頂だった憂歌団とジョイントそしてセッションもした

憂歌団との出会いをとても喜んで「日本に息子ができたようだ」などと喜んでいた彼ら・・・

ただ、その時も観に行った僕が感じたのは「ああ、なんか増々齢とってちょっと弱ってるなあ・・・」ということ その僕の勘は正しかった

そのコンサートから本国に戻ってわずか半年後1977年6月、彼は亡くなった 78歳だった

76年のステージのラスト・・・

これが僕らが見た一人のブルースマンの最後の姿だった

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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