仲田修子話  5

日本橋と川崎の間の隠された「二番」とは・・・それではご覧いただこう

元々の「お江戸日本橋」はこういう唄だ

お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり
行列そろえて あれわいさのさ
コチャ高輪 夜明けて 提灯消す
(コチャエー コチャエー)

*恋の品川 女郎衆に 袖ひかれ
乗りかけ お馬の 鈴が森
こちや大森細工の●●●を
(コチャエー コチャエー)

六郷渡れば川崎の 万年屋
鶴と亀との よね饅頭
コチャ 神奈川急いで 程ヶ谷へ
(コチャエー コチャエー)

*注;●の部分はあまりにも露骨な表現だったので伏字とさせていただきました この部分を知りたいかたはご自分で調べてくださいね

この歌詞じゃあ小学生に聴かせたりテレビやラジオで放送するわけにはいかなかったのだね

この2番の「恋の品川・・・」でもうすっかり品川がどういう場所だったかは皆さんおわかりですよね(笑)

そう、「品川宿」こそ 「北の吉原・南の品川」と並べ称された 江戸の二大色町の片方だったのだ 当時は「南」といえば通じたようだ

資料では最盛期の品川の遊郭はかなりの数あったそうで、そこで働く女性は吉原と違って「飯盛り女」と呼ばれ(表向きは食事を給仕する係りということになってた)最盛期には千数百人は居たそうだ 品川は「お江戸日本橋」にも出てきたとおりで、江戸を出て最初の宿場町

江戸時代の風習では旅に出るときはそこまで見送りの人々がついてきて、長旅の無事を祈り別れを惜しむついでに遊郭に上がってどんちゃん騒ぎ戻ってくれば今度は迎えてどんちゃん騒ぎ・・・というのが普通だったそうだ だから宿場は行く人、送る人、戻る人、迎える人などが集まりそれは賑やかだったらしい

中にはそこでの遊興が過ぎて「路銭」すべて使い果たし、仕方なく旅を諦めそのまま戻るというお馬鹿な人も結構居たようだ

その品川のどこらへんに修子は住んでいたのだろう 地元の旧宿場を案内する地図があったので本人に見てもらった しばらく眺めていて彼女は叫んだ

「あっ、ここだよ! この”丸屋”という下駄屋 この横の露地を入っていった突き当たりに私の家があったんだ」指差されてそこを見た 驚いた そこはまさに江戸時代の「品川宿」のど真ん中だったのだ

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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