仲田修子話  7

小学校に上がるようになると修子は毎日下駄かぽっくりを履いて学校に通った これは修子だけがとくにそうだったわけではない 当時の小学生の外履きは大概が下駄、学校に着くとそこで上履きに履き替え履いてきた下駄は「下駄箱」に入れる そういえばもう誰も下駄なんか履かなくなってもあの箱はそう呼ばれてたな・・・今は何と呼んでるんだろう?

当時修子が通っていた小学校 彼女の学年で1クラスが50人以上、それが11クラスもあった その下の学年になるともう「団塊の世代」になるのでそんなものじゃない 全部の生徒を一度に教えるだけの教室も教師も足りなかったので「二部授業」といって午前と午後の入れ替え制で授業が行われていた

だから街には子供が溢れかえっていた 大人たちは忙しく誰も他人も自分の子供も含めて子供たちに構ってなどいられなかった

自由で奔放な幼年期をすべての子供たちが楽しんでいた

その頃の修子はまだ背も小さく勉強もあまりできなかった 算数の授業で「2桁の引き算」が修子だけ出来なくて教師が黒板一杯に書いた引き算の式を「これが出来るまで帰ってはダメ」と言われ必死に挑戦しながら思わず泣いた・・・そんな記憶がある

しかし学校から帰れば自分のもの 相変わらず弟の世話は任されっぱなしになっていたが、当時は一緒によく遊んだという とくに二人のお気に入りの遊びはゼロ戦のプラモデルを買ってきて一緒に組み立てそれを並べたりしまいには「格納庫」まで作っていたそうだ

その一方で修子だけの「秘密の遊び」があった それは「お人形遊び」だ

当時よくあった「ミルク飲み人形」・・・これは人間の赤ん坊よりちょっと小さめで横に寝かせると瞳を閉じるという仕掛けになっていた こういう人形を3体持っていてそれに哺乳瓶に入れた水を飲ませて遊ばせていた しかしこの遊びのことを修子は誰にも知られることの無いよう隠れてこっそりとやっていた それは何と無く恥ずかしく後ろめたいような気がしたから 普通に考えれば女の子がそういう遊びをするほうが普通でむしろ「ゼロ戦遊び」のほうがちょっと変わってると思われそうなのだが、そういう意識を持っていた・・・これが後の仲田修子の生き方を象徴するような気が僕はした

外ではどんな遊びがあったのか そこには品川という街でこの時代に育った子供ならではのちょっと他の街のほかの時代では味わえないようなものがぎっしりと詰まっていたのだ

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

http://penguinhouse.net/how

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする