仲田修子話  12

学業成績はどんどん上がって行って優等生の仲間入りを果たした修子だったが、もうひとつの面も次第に表面化してくるようになる

当時、彼女の成績表の「所見」には担任から「正義感が異常に強くて時々暴力的になる」と書かれたことがあった それはどういうことかというとたとえば・・・

給食のとき「量が少ない!」と文句をつけてきた子を殴ったり、掃除当番のとき真面目にやらない子を「みんなでリンチしよう」と全員でその子の手足を持って持ち上げ落とそうとしてるところを教師に止められたり ものすごく体格のでかい男子と取っ組み合いの喧嘩をして(それだけでもスゴイが)負けたのでその後エンピツを尖らせたものをその子の掌に突き刺すという反撃を与える それを怒った向こうの親が怒鳴り込んでくると以前父親が言ったセリフを思い出し「子供の喧嘩に親が口を出すな」と追い返してしまった

ただし決していじめるのではなくて、不正をする者や力で相手を従わせようとするものに対し義憤にかられて暴力を行使していたようだ この気質は大人になってからの修子のさまざまな「武勇伝」にもしっかりと受け継がれているのである

ところで、修子の通う学校にはちょっと変わった生徒も居た それは「ハーフ」の生徒でたとえば黒人とのハーフの子が居た 彼はすごく勉強ができたので周りからは「ジョージさん」と呼ばれ尊敬されていたという 当時、終戦後のどさくさでアメリカ人との混血の子供はかなり居たのだが、その多くは周りから差別されあるいは父無し子として生まれそれだけでもヒドいのに捨て子にされ、そういう子供たちを引き取って育てていた「エリザベス・サンダースホーム」という孤児院もあって「ジョー山中」「青山ミチ」などの芸能人やロックミュージシャンの「山口富士雄」など皆悲惨な子供時代を送ったようだが、修子の通っていた品川の小学校ではそんな差別などこれっぽっちも無かったという

そしてもう1人ハーフの女性とがいたのを修子は覚えている その子は白系ロシア人とのハーフでものすごく可愛かったという 彼女はその後タレントになりテレビや映画、雑誌のモデルとしても60年代に活躍した その名前はちょっと珍しいが「ムーザ毛馬内」と言った

ところで修子と音楽との出合はその頃は無かったのだろうか

たとえばたまに学校で全生徒を講堂に集めてクラシック音楽のレコードを聞かせるなんてことも行われていたそうだが、それを聴いても修子は「なんだか退屈でつまらない」としか思わなかった

ただ、あるとき父親に「ピアノが弾きたい」と言うと元々子供に「歌舞音曲」など必要ない それよりも科学の教育に熱を傾けていた父親はもちろんそんな希望は受け付けてくれず、そのかわり仕方なくハーモニカを1本買ってきて修子に与えた

すると少し練習しただけで大抵の曲だったら聴けばすぐにそのメロディーをハーモニカで吹けるようになったというからやはり音楽の素養はあったのだと思う

しかし彼女が音楽に触れる・・・というより音楽というものと、もの凄くヘビーな出会いをするまでにはあと10年以上の歳月が流れることになる

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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