僕の吉祥寺話 56

さて、高田渡といえば吉祥寺と切っても切れないシンガーだったのはご存知だよね

20代のはじめに最初の奥さんの富美子さんと京都から引っ越してきてから何度かの転居はあったわたるがずうっと吉祥寺から離れなかった

そして、最後に彼が亡くなるまで住んでいた有名な電気が15ワットしかなかったボロアパート・・・そこは僕の通っていた中学校のすぐ近くにあったが僕がそこを訪れたのは彼が亡くなって北海道から戻ってきたときが始めてだった

その六畳二間だけくらいの小さなアパートの部屋にその晩それこそぎっしりと音楽仲間が詰め掛けていた

彼は結局一生を清貧に甘んじていたわけだが、それを好んでいたのかどうかは何とも言えない

僕が吉祥寺を離れその後八ヶ岳で暮らすようになってからはずいぶん彼との直接の接触がなかった

当時は日本がバブルに浮かれてやがてそれが破裂してどん底の時期が何年も経っていたが、彼も僕もそんなこととはまったく無関係に、居た環境はまったく違うが互いに貧しくつつましく暮らしていたんだと思う

そんな彼と再びよく顔を合わせることになったのは僕が吉祥寺に蕎麦屋「からまつ亭」をオープンimagesCALVWLG8してからだ

彼の奥さん(2番目の)が蕎麦好きということもあって、ちょくちょく僕の店に来るようになった

蕎麦は全然食わず酒ばかり飲んでいたが(笑) そしてまたあの昔と変わらぬ毒舌と皮肉で僕にもついに~1言いたいことを言っていた まあ僕も彼にはけっこう遠慮なしに言いたいこと言ってたけど(笑) フォーク界の大御所だとか「伝説の」とかいう扱いはしたくなかったし、とにかく一切特別扱いはしなかった

こんなやり取りをしたことがある 「矢島君はあの頃僕に対して態度悪かったよね」「そうだよ」・・・笑いながら僕は答えた

それはなぜか・・・70年代のあの当時、吉祥寺の「ぐゎらん堂」や「のろ」などでは高田渡といえば「名士」で、彼の周りにはいつも「取り巻き」みたいな連中がうようよ居たのだ

それはもちろん彼が面倒見がいいのと人間的な魅力があったことと切り離せないのだが、中には「渡にくっついてれば何か美味しいことがあるかも・・・」などという動機で近付く人間も居なかったわけではない・・・と、当時の僕は思っていたのだ

だからそういう「寄らば大樹のナントカ」みたいなことが僕は嫌いでことさら彼に対しては「フンッ!」という態度をとっていたのだと思う

そのことについて僕は彼に詫びたことはないし、今でもその気持ちは変わらない

ところで、からまつ亭に来てはいつも酒を注文していた彼だが彼と酒・・・それは切っても切れないサケものだったのだが・・・・続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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