仲田修子話 47

当時流行りはじめた「ゴーゴークラブ」 そこではいつも大音量でその当時ヒットしていた「JB」などに代表されるブラックソウルミュージックが流れていたのだが それらを修子は「音楽」だとは当時は思っていなかった なんかお祭りなんかで景気をつける「やぐら太鼓」みたいなものなんだろうと思っていた JBが何なのかはあとで自分が音楽をやるようになってから「あれがこれだったのか!」と気が付いた


そして修子自身は自分には音楽的才能があるかなどということには全く気が付かなかったしそもそも音楽にはまったく興味が無かった それどころかある日踊っていたら、ある空手道場の師範から「うちに来て女性向けのの師範代になってくれないか」・・・と またあるフラメンコ教室の先生から「あなただったら半年やればプロになれる うちに来ないか?」とも誘われた もし彼女がそのどちらかの誘いを受けていたら今の仲田修子は居なかったのかもしれない

ゴーゴークラブで修子が踊り始めると他の客は踊ることをやめて輪になって彼女の踊りを真剣に見ていた

ある日修子の提案で「どれだけの時間休まずに踊り続けられるかやってみよう」ということで後によく開かれる「ダンスマラソン」を開いたことがある ほかの皆は途中で脱落してしまったが修子は8時間ずうっと踊り通した しかしその翌日から3日間は布団に横たわって起き上がれなかったという その当時もし「女子マラソン」という競技があったらマラソンランナーになれてたかも知れない そうなれば「アスリート仲田」というものになってて、やはり歌手仲田修子は居なかったか・・・とにかく彼女の色々な才能がむくむくと頭をもたげ始めていたのかも知れない それはこのあとに彼女が辿るさまざまな遍歴でも明かされるが・・・それはお楽しみにしてて下さい

その頃新宿にあったジャズ喫茶「ピットイン」に行くこともあったが、そこには細い柱がいっぱいあってその柱全部に「クスリを飲んでいる方は出て行っていただきます」という注意書きがズラーっと貼ってあって、自分はクスリなんか飲んでないので逆にここへは来ちゃいけないのかなと修子は思った

ちなみに当時の”クスリ”は「ハイミナール」という(ハイちゃんとも呼ばれていた)睡眠薬の一種が」主流で修子も二回くらい飲んだことがあるけど唇がしびれてきてボーっとした感じになって気持ちいいといえば気持ちいいかな・・・というくらいだった 中にはハイミナールをテーブルに20錠くらい並べてそれを齧りながらビールを飲んでた女性を目撃したことがある 当時は「マリファナ」などはまだ出現していなかった・・・そんな時代だった

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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