仲田修子話 51

修子にはレズビアンクラブ「白川」でのチップと給料を合わせれば当時でも5万円近くの収入があったが、住まいは相変わらず4畳半のアパート暮らし 収入が上がったのだからもう少しいい住処に移れるように思えるがそれは無理だった それは修子の弟がその頃大学に通い始めていたのでそれにものすごく学費がかかったのだ 一生懸命働いて稼いでそのほとんどを弟のために差し出していた修子 それに対して弟はとくに感謝を言うわけでもなく当然のこととして受け止めていた・・・つまりその頃すでに修子は仲田家においては完全に「親」としての役割りを務めていたのだった この関係はその後もずうっと続いてゆく

さて、これからお話しするのは1968年にあったことだ 当時といえば「70年安保」を控え学生運動などに象徴される若者たちのエネルギーが日本中を文字通り「炎上」させていた時期・・・そのときのそのさらに真っ只中で起きていたことに修子は深く関っていくことになるのだ

ではその話

ところで、その頃修子はその業界でもかなりの有名人になっていた 作家の戸川昌子が経営していた「青い部屋」という店でも修子のことは評判になっていて、戸川と週刊現代の編集長からは「東京一の美少年」という称号まで与えられていた

そんなある日、その時代のアングラ演劇界の中で唐十郎の「状況劇場」、佐藤信の「黒テント」、鈴木忠志の「早稲田小劇場」などとともに四天王と言われていた劇団「天井桟敷」から「白川」へある問い合わせが来た それはお店が推薦する「男装の麗人」を1人紹介してほしいということだった 実は劇団が予定していた公演に出演予定だった役者が都合で急に出られなくなってその代役を探していたのだ どうも劇団のほうも修子の噂は耳にしていたようだ

そして店が推薦したのは・・・やはり修子だった

条件はこうだった 劇団の稽古期間中は店に遅れて来ても給料は引かれない、そして芝居の公演が始まったら劇団は修子に一日につき5千円支払う・・・というものだった

なかなか悪くない話だった それで修子はその話を受け入れた

劇団の稽古は公演開始の前一ヶ月間ほどあるという そしてその最初の日、劇団側から連絡をもらい渋谷区宇田川町にある劇団の稽古場に行きそこで「テラヤマさん」という人物と会うようにと言われ修子は現場に向かった 到着してみるとそこは廃墟になった工場の跡みたいなところだった 着いてみたが誰も居ない ガラーンとした空間で独りポカーンと待っている修子 そもそも「テラヤマさん」て誰?・・・何も知らずにいた修子だが

するとやがて向こうから1人の男性が歩いてきた

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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