仲田修子話 57

さて、今からお伝えするのは仲田家をも巻き込みそうになった大きな社会的事件のことだ

それは1968年10月21日に起きた通称「新宿騒乱事件」

当時の日本には「全学連」という大学生によって組織された政治的目的を持った集団があった それらの運動が1960年の「日米安全保障条約」通称「安保」問題あたりをきっかけに日本各地の大学で巻き起こりやがてどんどん大きくなっていった

最初はただ大人しくデモをするぐらいだった学生運動はやがて次第に武力闘争へと変化してゆき「過激派」と呼ばれる集団は角材を使った「ゲバ棒」ビール瓶などに灯油を詰めた「火炎びん」などの武器を持ち始めそれはどんどんエスカレートしていった 最初は主にそれぞれの大学を舞台にした闘争「東大紛争」「日大紛争」などの活動が中心だったのだが、やがて外に出て「市街戦」のような形を作るようになっていた

そして68年の10月21日 その日は「国際反戦デー」というタイトルでベトナム戦争に反対する集会が日本各地で開かれていた

その中で当時もっとも過激な武力闘争を繰り広げていたセクト「中核派」を中心にした過激派は日比谷公園と代々木公園で集会を開きゲバ棒で武装し新宿へと向かった

午後9時、一度新宿駅東口に集結し・・・そして「闘争」は始まった

学生たちは新宿駅構内に乱入すると停車していた電車の窓を叩き割り、車内の座席のシートを剥ぎ取るとそれに火をつけた そして線路内に敷き詰めてあった石を持ちあちこちのガラスなどを打ち壊した 彼らはその後駅から外に出ると東口のロータリーに面した店などのウインドウガラスを次々に壊した 警護にあたっていた警察車両をひっくり返しそれにも放火

もう新宿駅周辺は完全な「無法地帯」になってしまったのだ

このとき面白いことが起きた 暴れる学生たちを最初は遠巻きに見物していた野次馬たちが次第にその行為に参加しはじめた 筆者が見つけた当時の写真にもネクタイを締めたあきらかにサラリーマンと見える人々が楽しそうな顔をしてそれに加わっているのがはっきりと映っている

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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