仲田修子話 109

さて、シンガーソングライターとしてライブ活動を始めた修子に対して当時の事務所「ジュダス」はなかなかいい待遇を付けてくれていた ライブ活動は彼女の意思でどこでどのようにやるのも自由 ライブ会場についての手配やマネージメントもやってくれてハコの仕事はたまに「トラ」の依頼があったとき務めるくらい・・・これで毎月14万円のギャラを保証されていた 実は修子とこの事務所の社長「エンチョウ」の間には独特の力関係があった

ま、てっとり早く言えば修子にその「エンチョウ」はまったく頭が上がらなかった 当然事務所のスタッフも全員そうだったわけで、エンチョウ以下事務所の全員が修子を怖れていたのだ その事務所で修子はまあ「クイーン」だったわけだ

しかし事務所もそうは言ってもただ手をこまねいていたわけではない 機会があれば何とか修子を売り出そうと色々なプロモーションも行っていた

たとえばライブハウスへの出演以外に「福井工業大学」というところの学園祭に出演したことがある その時もらったギャラがけっこういい額(当時で5万円くらい)その当時修子は月給制で仕事をしていたので通常はもらったギャラはまず事務所に渡すことになっていただが、ここでのギャラがものすごく良かったので事務所に対して堂々と「このギャラ着服したよ」と告げたが、誰も文句を言う者は居なかった

ところで、その大学の学園祭には修子以外にもう一組対バンが居た それは当時「東京」という曲でヒットしていた「マイ・ペース(注)」というアコースティックDUOだった


彼らが演奏している時はすごく大勢の女学生や付属高校の女生徒たちがつめかけて聴いていたその曲の歌詞を聞いて元々東京で生まれ育った修子はその意味がよくわからなかったという そして修子が出て演奏してそれが終わった時・・・ふと気がつくとその講堂の一隅にずらーっと真っ黒い列が出来ていた

よく見るとそれは全員その大学の「応援部」の学生たちだった いつものライブハウスよりは愛想よくしていたが、修子の気合の入りきった演奏を観て強面の彼らはすっかりファンになってしまったようで、彼女がステージから降りるとやってきて「握手して下さい」とか言われものすごい熱気で修子は取り囲まれてしまった

その時代修子と同世代で作詞作曲が出来てギターを弾いて歌も歌える女性シンガーはまだほとんど居なかったので事務所にとっては彼女はまさに「宝の山」だったのだ

欲を出した事務所は修子に「とにかく曲を一杯作ってくれ」と要求してきた たとえばあるマネージャーは「雨戸も締め切って2~3日引き篭もって作曲に集中してほしい」とまで言ってきた 生活を保障してもらっているという手前もあったので修子はそれに応えてどんどん曲を書いた 一番多いときは2日で5曲くらい その中には今でも彼女のベストナンバーになっている「シンデレラのお姉さん」や「国立第七養老院」などもあった

注;「マイ・ペース」秋田県の昭和町飯田川町組合立羽城中学校(現在の潟上市立羽城中学校)の同級生の、森田貢、伊藤進、根次男の3人で結成されたフォークグループ 同郷のシンガーソングライター山平和彦のバックバンドを経て、1974年シングル『東京』でメジャーデビュー ロングセラーに。 1978年、根が脱退。活動休止状態になるが、 2010年オリジナルメンバーで活動を再開(以上Wikipediaより抜粋)

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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