ギターギター 26

さて、元々アパラチア地方に人々が住むようになったいきさつはどうだったのでしょうか

ちょっと長いかもしれませんが、色々な資料から抜粋すると

18世紀中に地域を開発したアパラチアの人たち、キリスト教のプロテスタントだった彼らの祖先の多くはイングランド人スコットランド人スコッチ=アイリッシュ、アイルランド人の文化が保存された。地域の文化には、強い口承の伝統(音楽や歌など)、自給自足の生活と、固い信仰が含まれている

開拓者がブルーリッジを越えてアパラチア高地まで入ってきたのは、移民が東海岸に最初に住み着いてから150年後の、植民地時代の終わりごろだった。グレートバレーとその向こうにある山岳地域への経路として、もっとも容易で、最初に使われたルートは、ブルーリッジの高さが丘陵地帯とほとんど変わらない、ペンシルベニア州南東部にあった。多くのペンシルベニア住民たちは、北と西に広がる山地は住むのに適さない土地であると考えた。この結果彼らは、徐々に渓谷を下ってバージニア州に定住するようになった。そしてさらに、南部の低地から内陸に移動する人々がそこに加わった。

その後、18世紀も終わるころになって、人々は周辺の高地にある渓谷や谷間に住むようになった。彼等が選んだ土地は、さらに遠くの西方にある地域と比べて痩せていた。起伏が激しく、寒冷な高地気候だったため、この地域のほとんどは農園経営に適していなかった。一握りの大規模農園が発達したのは、もっと広い一部の低地だけだった。

18世紀末から19世紀初頭にかけて開拓者がこの土地に来たとき、この地域は小規模農業に適している可能性も十分あった。農民1人が管理できる開拓地は、面積にして約10-20ヘクタールにすぎず、このような狭い土地であれば、渓谷にも存在した。森林は猟獣の獲物であふれ、木材も豊富だった。そして、森や山の牧草地で家畜を放牧することもできた。当時の基準では、これはなかなかの土地と言えたため、すぐに農民が山に定住するようになった。

この地域の大半は、次第に他の地域から隔絶し、孤立していった。より平坦で肥沃な土地が西部で開拓され、穀物生産が機械化されるにつれ、小規模なアパラチア農場の経済的重要性は次第に低下していった。バージニア州の西端に位置するカンバーランド・ギャップや、そこからケンタッキー州のブルーグラス盆地に至る「ウィルダネス・ロード(Wilderness Road)」などのような、この地域を走る有名な交通路でさえも、実際には曲がりくねった、進むのが困難な道だった。

そして、その当時から現在に至るまでの長い歴史は彼らが抱えてきた貧しさと閉鎖的社会・・・そしてアメリカの他の地域とくに都会の人々から差別や蔑視を受け続けることが続いてきました

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