僕の八ヶ岳話 83

やがてガス台の上に置かれたボウルから湯気が上がり始めた するとおやじさんは冷蔵庫から菓子箱のようなブリキの器を取り出すと、そこから無造作に生蕎麦の束を掴み湯の中に入れた

ちらっと見たそれは普通の蕎麦に比べると少し黒っぽかった これは期待できる・・・かも

蕎麦には色々なものがあり真っ黒なものから逆にそうめんのように真っ白なものまで・・・僕はどちらかといえば黒目の蕎麦が好きだ 子供の頃、親に連れていかれて食べたある店の蕎麦が本当に真っ黒で、それがものすごく美味しかったのをずうっと覚えていた そこまでではないが、ここの蕎麦はかなり黒かった

やがておやじさんはザルで茹であがった蕎麦を湯から掬い上げ、すかさずそれを冷水で冷やしながら洗う・・・その手際がとてもスピーディーで美しかったので「この人はやはり本物の職人なんだな」と僕は思った

オヤジさんはその蕎麦をざっと水切りをして蒸篭(セイロ)に盛り付けた

最近蕎麦屋によってはザルに盛るパターンが増えてきたが、元々はこのセイロが使われていた 実は蕎麦は生み出された当初は茹でるのではなく蒸して調理されてたのだ セイロはその名残りで一般的な蕎麦屋は大体これを使っている それはプラスチックの安物から漆を塗った高級品まで様々あるが・・・この店のセイロはそういうものでは無かった

それは板のように加工された竹を組んで作られていた 見た目はなんだか安っぽくみえた しかし、後になって判ったのはそんなセイロに使えるほどの太くて厚みのある竹はなかなか無いということだ 今でもなかなかのお値段で売られている

そしてセイロに盛られた蕎麦がいよいよ目の前に置かれた 僕はまずそのセイロを持ち上げ、蕎麦を鼻先に近づけた うん、匂いがする・・・蕎麦のいい匂いだ

そして箸で一掴みした蕎麦を猪口のつゆに漬け口に運んだ

ズルッ!・・・僕は蕎麦はほとんど噛まない 喉越しと香りを楽しむためだ 喉越し・・・うん!ツルっとしていい喉越しだ ちょっと噛んでみる すごくコシがあってそれでいていい弾力だ(なんか”孤独のグルメ”みたいになっているなあ) 蕎麦を口に入れるとき思い切り「ズルッ」とすするのにはちゃんと理由がある 蕎麦と一緒に空気も吸い込むのだ そして蕎麦のほうは飲み込んでおいてから喉の中に残った空気を今度は鼻からふうっと吐く このとき蕎麦から出た香りが空気に混ざりそれが鼻腔を通る時鼻が感じるのだ 外国の方は「下品だ」と嫌がるこの動作にはちゃんとした理由があるのだ

そして僕は理解した 美味い! こんな美味い蕎麦には久しく出会ってなかった 八ヶ岳の「翁」のそばよりも僕はこちらの方が美味いと思った なるほど、たしかに社長が「甲府で一番美味しい」と言ったことは本当だった

食べ終わった僕はおやじさんにこう言った

「ごちそうさまです! とても美味しいです! お願いします! 蕎麦打ちを教えて下さい!」

この瞬間、蕎麦職人としての僕の人生が始まった

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