僕の吉祥寺話  6

さて、いつまでも「浪人」しているわけにもいかない 翌年の春・・・僕はやっとの思いで東京にある私立の工学系の大学になんとか滑り込んだ

しかし、入学して一週間ほど経つとすぐに気づいた・・・ここは僕なんかが来るべき場所じゃなかった・・・そう思うようになった

なんていうか、肌触りが合わないというのかなあ そこの学生たちが持っている空気みたいなものに妙な違和感を感じて・・・僕がそんなことを感じるのにはやはり「あれ」が関係しているんだろうなと思う

話が遡るが、浪人をしていたころ僕がハマって聴いていたJimmie Rodgers  彼の歌い方には独特のスタイルがあった それは「ブルー・ヨーデル」と呼ばれていてどの曲にもかならず「ヨールレイ~ッヒ~~♪」というようなヨーデルが入るのだ

それだけではなくその”のほほん”としているのにどこか憂いがある歌い方そしてメロディー・・・

それが黒人たちが歌っていた「ブルース」からの影響だと知ると僕はその「黒人ブルース」というものを聴いてみたくなった

吉祥寺のレコード店に行くとごくわずかな枚数の黒人ブルースのLPの中に一枚の魅力的なジャケットのアルバムを発見した モノクロの写真はどこかの大きな野外ステージで黒人のシンガーがこちらに背中を向けて観客に向かって歌っているシーンだ そのステージを見つめる観客の表情がとても活き活きとしていて目の前で繰り広げられている音楽がどれだけ魅力的かを物語っているようで・・・そのタイトルは「The Blues at Newport」といった

ほぼ「ジャケ買い」でこのアルバムを買って帰るとすぐ僕は自分の部屋で聴いてみた

それはアメリカの有名な野外コンサート「ニューポート・フォーク・フェスティバル」の模様を録音したもので1960年代の前半、フォークブームの波の影響でさまざまな往年のベテランブルースマンたちが「再発見」されて登場した”ブーム”の最中だったのだ

そのアルバムからはじつに生々しく生きているブルースマンの声が届けられた それはすごいカルチャーショックだったのだ

今まで耳にしたことのない・・・なんて言ったらいいのか・・・大地から直接響いてくるような・・・人間の声というより「魂」が直接歌っているような・・・脳の中の今まで誰も触ったことのない部分にいきなり素手で触られたような・・・それが黒人ブルースとの初対面だったのだ

中に登場していた黒人ミュージシャンは「ミシシッピ・ジョン・ハート(左)」「スキップ・ジェイムス(中)」「スリーピー・ジョン・エスティス」「エリザベス・コットン」「ロバート・ピート・ウィリアムズ(右)」といった顔ぶれだったのだ

彼らはもう例外なくかなりの高齢だった それに「再発見」されたときにはもうすでに”現役”ではなく大概はアメリカ南部の片田舎で忘れ去られてひっそりと暮らしていたのだ

にもかかわらずその何十年ぶりで人前で歌う彼らの歌には瑞々しさと生きているエネルギーがあった

その中でも特に僕の心を捉えたのが「スリーピ・ジョン・エスティス」だった


1930年代に南部のメンフィスを中心に活躍していた彼だが、再発見されたときにはすでに”老境”のかなり後半おまけにその間の人生の苦難もあって両目を失明して貧困のどん底にいた人だ だから当時の紹介でも「悲しみのブルースマン」とか「涙なくしては聴けない」などと紹介されていたが実際にニューポートのライブ音源を聴くとサイドにハミー・ニクソン(harp)ヤンク・レイチェル(mandolin)を従えた演奏は不思議とジャンプしていてダンサブルでしわがれ声で歌うジョンは”ファンキーなおじいちゃん”といった感じだった 僕は一編で”ファン”になってしまい その後輸入レコート屋(まだ国内盤は出ていなかった)を探しまくり、ヨーロッパのマイナーレーベルから出ていた彼のアルバムを手に入れた日がちょうど大学の合格発表の日と一緒だった・・・というのも何かの運命だったのかも知れない

いわゆる「フォークミュージック」とか「伝承音楽」とか言われているものと違うものがその中にはたっぷり流れている・・・それを感じ始めたころから僕の心はすでに”蝕まれて”いたのかもしれない

続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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