僕の吉祥寺話  7

「吉祥寺話」と言いながら吉祥寺の話をほとんどしていないねえ・・・

それには理由もあって高校卒業から浪人中は僕がほとんど「引き篭もり」に近い生活をしていたからで吉祥寺の街にはたまに買い物に行くぐらいで”そこ”で何かをするようなこともなかった

・・・が、ここから先しばらくは本当に吉祥寺の裏町での僕の”ドラマ”はそれはそれは「濃い」ものになってゆくのでしばらく待ってね

今はそこに至るまでのプロセスを読んでもらっているわけです

さて、話は黒人ブルースに出会ってからの僕の日常の話に戻す

その1枚のレコード「The Blues at Newport」をきっかけに僕はずるずると「ブルース」というコールタールのように真っ黒で粘っこい”底なし沼”にはまって抜けられなくなっていた

それとまるで呼応するようにその当時の日本にはちょっとしたブルースブームが起き始めていた

少し前なら考えられなかったオムニバスの「RCAブルースの古典」という3枚組みのアルバムが「ビクター」から発売され、それまで輸入盤でしか聴けなかった戦前のブルースが手軽に聴けるようになったのだ それにラジオでも音楽評論家の中村とうようが「ブルースの世界」などという番組をスタートさせるなど・・・まるでブルースがトレンドのような状態・・・いま考えると「夢」みたいな状況だったね

そして僕は数多いカントリーブルースの”巨人”たちの沼の中から僕の「アイドル」となるブルースマンたちを掘り出していた 「ビッグ・ビル・ブルーンジー(左)」「タンパ・レッド(中)」「ロバート・ジョンソン(右)」・・・それらは後のジミー矢島のギタースタイルに多大な影響を与えることになる

その中でも僕のギタリストとしてのキャリアに重大なインパクトを与えた一人の盲目のブルースマンがいた その名前は「Blind Blake(ブラインド・ブレイク)」と言う

はじめてレコードで彼の超絶ギタープレイを聴いたとき「これは絶対に二人で弾いている」としか思えなかった そのギターはいわゆるフィンガーピッキングなのだが「ストラミングベース」と呼ばれるシンコペーションを多用するベースランと高音のフレージングの組み合わせはどう考えても1本のギターでは無理!としか言えない でもやはりどうも一人でやっているようだ

今は教則本とかビデオとか色々出回っているからそういう秘密を暴くのが楽になってきている でもその当時はそんなものは一切なかった

そこで僕はその曲を何度も何度も・・・本当にレコードの溝が擦り切れるまで聴いた

そして頭の中でそれをイメージしながらギターに食らいつく・・・「う~ん、こうじゃない!」などと嘆きながら・・・何度も何度もトライしながら

そういうことを2~3ヶ月続けた結果なんとかブレイクのギターワークに近いものが出来るようになっていた そう・・・こんな感じかな 後半1分34秒のあたりからでちょっと弾いてます(当時と比べるとだいぶ下手になった(×.×)

そんなこんなでその頃はすっかり「あちらの」音楽にばかり興味が集中していた僕だが、もちろん元「フォーク少年」であった自分としては日本の音楽にもアンテナは張っていた

そんなある日、ラジオの深夜放送のたしか吉田拓郎がやっていた「オールナイト・ニッポン」のなかで奇妙な曲がかかった わずか1分もない短い曲 「アイスクリーム」という曲でやけにぶっきらぼうで淡々と歌うそのシンガーの曲調やギターは完全に「ミシシッピ・ジョン・ハート」のスタイルだった

そのシンガー 高田渡がじつはそのとき吉祥寺に住んでいるという情報をきいたのはそのすぐあとだったのだ
続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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