1940年代も後半に入り太平洋戦争が終わるとアメリカ北部の都市シカゴにはそれまでよりさらに多くの黒人が仕事を求め南部から大量に移動してきた その中にはミシシッピ州からの移住者も多かったのだ それらの人々に混ざって1人の黒人青年がシカゴにやってきた
ミシシッピ州クラークスデイル出身のその男は地元に居た時からかなりのブルースの名手で、1041年に「国会図書館」のフィールド・レコーデイングで当地を訪れた研究家「アラン・ローマックス」は「ロバート・ジョンソン」を探していたのだがすでに彼が死んでいることを知り、そのとき「ロバートと同じくらい上手いシンガーが居る」という情報を得てその男を探し当て何曲かを録音した
その男の名前は「マッキンリー・モーガンフィールド」
しかし周りからはこういうニックネームで呼ばれていた・・・「マディー・ウォーターズ」
その当時の録音がこれだ
ヘンリー・シムズというバイオリン弾きのバンドの一員だったマディー
そのマディーも46年になるとギターを抱え汽車に飛び乗った 行き先はシカゴ
シカゴに着き音楽の仕事を探していた彼だったが、彼の演奏を見た人々はそのあまりに泥臭い田舎っぽいスタイルに抵抗があったようだ そしてある人物が彼に向かってこう言った
「お前さん、ここらじゃもう誰もアコギなんかでブルースやってないよ あんたもエレキ持たなきゃ」
その忠告を聞き入れ彼もエレキギターを手にするようになる 元々ミシシッピの最も泥臭い地域で養った彼のギタースタイル 特にスライド奏法をするにはエレキギターはぴったりだった
そのまるで動物が鳴いてるような音は次第にシカゴに居た黒人たちにも人気を得るようになっていた
そんな頃、それを知ったビッグ・ビル・ブルンジーが彼に声をかけた
「あんたいいギター弾くね どうだい俺が紹介するからレコーディングしてみないかい」
それまでシカゴのブルース界に君臨してきたビルだったが、この若者の持つ今までにない魅力を感じ取ったのだ このことをマディーは深く感謝していたようで後にビルに対するトリビュートアルバム「Sings Big Bill Broozy」をchessからリリースしている
ビルの紹介でマディーはレコード業界に足を踏み入れる そしてそこで今まで自分は知らなかった”バンドスタイル”のブルースに触れ次第にそのスタイルを取り入れていった
そしてマディーがいつしかバンドブルースとして新しい「シカゴブルース」を生み出し一躍スターになるのと入れ替わるようにビッグ・ビルの人気は落ちていった
彼のブルースは もうすっかり時代遅れに・・・なっていたのだ
高円寺ライブハウス ペンギンハウス