仲田修子話 152

「日本のパンクロックって今どうなってるんだろう?」

そういう素朴な興味がその当時修子に芽生えてきていた その当時はアメリカで「パティー・スミス」「ラモーンズ」など、イギリスで「セックスピストルズ」などが出てきて一気にパンクロックブームが加熱したが、また同時にあっという間にブームが終わったり変化したりと目まぐるしい状況だった 日本でもその影響を受けて「パンクロック」をやるバンドが出てきたがその実体ははっきりせず、このシーンがどうなってるのかイマイチ見えてこなかった 音楽のメディアの連中に訊けば「ああ、パンクなんてもう終わってるよ」と一蹴されるような反応だった

「解らないのなら・・・自分で確かめるか パンクのコンサートをやろう!」

修子のアクティブさはまだまだフットワークの軽さを持っていた さっそくまず企画を打つとして、その場所は・・・すると修子の知り合いの知り合いが、新宿の近くに演劇用の貸しスペースで働いているという情報が入った その施設の名前は「ライヒ館モレノ」といった 実際に下見に行って見ると甲州街道に面したビルの地下にそれはあり、企画ライブをやるにはちょうどいいくらいのスペースだったので、修子はそこを会場に決めた

タイトルは前にも書いたとおり「パンク・ニューウェーブ 日本の場合」にした

次に出演者を集めることにした 情報誌などで募集をかけるとすぐにいくつものバンドから応募があった そして78年の9月、ライヒ館モレノでそのイベントが開かれた

そのときに出演したのが「ヒカシュー」「81/2(ハッカニブンノイチ)」「自殺」「BOLSHIE」などのバンドだった

当日、修子は猫屋敷の常連だった日大の応援部のかなり強面の男を「警備係」として雇った 何しろパンクやってる連中なので何をするか判らない 不測の事態に備えたのだが、案の定当日の出演者の中に反抗的に言うことを聞こうとしないやつが現れた すると修子は有海と共にその男をトイレに連れて行き、有海に外で見張りをやらせておいてその男をつるし上げた

「おらーっ!何やってんだこの野郎 なめるんじゃねえぞ!」

その男は顔面蒼白になり、抵抗もせずにギブアップし大人しくなった

そのイベントはなかなか盛り上がったが、修子はやってみて「こんな態度の悪い連中とは付き合ってられない」・・・と2度とこの手のイベントはやらなかった・・・ところが

後にヒカシューのリーダー巻上広一が自分のプロフィール年譜にも上げているが、あとになってそのイベントが日本のパンクの歴史の中でかなり重要なランドマークになっていたことが解る

そして修子がそのイベントを企画した翌年、その時とほぼ同じメンバーで同じライヒ館モレノを使ってのパンクイベントが開かれた その模様が録音され「東京ニュー・ウェイヴ79」として発表され、パンク、ニューウェーブの歴史に名を留めた

ライヒ館モレノもその後しばらくはパンクのイベントによく使われるようになっていった

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

出演するには?

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