あの頃・・・昭和30年代の吉祥寺周辺には子供の遊び場はいくらでもあった
遊園地なんてものはたいしたことなかったが家のすぐ裏は雑木林だったし原っぱや空き地がいくらでもあったのだ
学校が終わると家にランドセルを放り込んで僕らは遊びに出かけた まだ塾なんてほとんどなかったし、ゲームセンターにも滅多にいかず、近所の原っぱが少年たちの「テーマパーク」だった
広い空き地では「三角ベースボール」をやっていた
これは説明すると三角状に作られたベース配置でやるやつで人数が少なくてもやれたし狭いスペースでもやれる 当時の男児はみなこれから野球を覚えていった
この野球にはほかのゲームにはないある特殊なルールがあった その原っぱには丈が30センチほどの細長い草が一面に生えていた 本当の「草野球」だったのだ
守備側の人間はその草地のランナーが走るコースの中に罠をしかけるのだ それは丈の長い草を両手でそれぞれ掴み上の方を結ぶ すると走ってきたランナーがその罠に足を取られて転ぶ・・・そこをタッチしてアウトにする・・・野球と戦争ごっこが合体したようなゲームだった
その原っぱと隣にあった建築用資材置き場、そして畑は僕らにいくらでも遊びの可能性を与えてくれた 秘密基地もこしらえた 当時の子供たちが持っていた創造力と想像力は素晴らしかった
近所にあった洋風の廃屋は「キャプテンキッドの隠れ家」ということになって、僕らは宝探しの計画に胸踊らされたものだ
当時の女の子たちは「おままごと」に明け暮れしていたし、裏通りでは輪ゴムを長〜く繋いだものをジャンプして越える「ゴム段・ゴム跳び」が流行ってて、ゴムを跨ぐためにスカートの裾をバンツの中にはたくしこんでいる女子を見て妙に胸が高まったりしてたっけ
あ と、当時のそのあたりには畑もけっこうあった その頃多摩地域は「ウド」の産直でもあったのでウド畑があちこちにあった ウドは「ウドの大木」と言われるだけあって成長すると2mくらいの丈になる ここは隠れん坊などにはおあつらえ向きだった
・・・ただ、畠の隅の方には一ヵ所「デンジャラスゾーン」があった
それは「肥溜め」日本の農業からは今やまったく姿を消したあれが当時はあちこちにあったのだ
そしてうっかり者はそこへ落ちる・・・これくらい悲惨なことはなかった
もう落ちたら惨めだし臭いし親からは怒られるし・・・そしてその後しばらくはその子に対する周りの評判も残酷なものになる・・・「あいつ肥溜めに落ちたんだぜ~」「いやあ~っ!」
そしてこう呼ばれる 「エンガチョ~~ッ!」・・・・って今じゃ死語だよね(笑)