僕のブルースマン列伝 31

さて、戦前~戦後と色々なブルースマンを僕のまったく個人的な好みとチョイスで紹介してきた「僕のブルースマン列伝」 いちおう締めくくりとして今回の最終回 この人を紹介するのはあまりに”ベタ”過ぎるので「なんだよ~」と言われそうだがやはり紹介しないわけにはいかない事情があるのだ それは

B.B.キング B. B. King

本名Riley B. King 、ビー・ビー・キング、1925年9月16日 – )は、アメリカ合衆国ブルースギタきんぐリスト、歌手作曲家1950年代から現在まで常に第一線で活躍してきたブルース界の巨人。

1925年9月16日ミシシッピ州北西部のイッタベーナのプランテーションに生まれる[2]。幼少の頃は小作人として働く。その後ギターを手にし、幼くして頭角を現し始める。T-ボーン・ウォーカーロニー・ジョンソンと言ったギタリストの音楽だけではなく、ゴスペル音楽にも触れていたという。

1943年に州内のインディアノーラに移住し、その3ヵ月後にはテネシー州メンフィスに移り住む。キングはそこで、いとこのブッカ・ホワイトに教わりながらギター・テクニックを磨いていく。やがて彼は、メンフィスのラジオ局WDIAでDJをするようになった。そのときに番組のスポンサーだった飲料の名前から「The Pepticon Boy」と名乗っていた[3]のが後に「Beale Street Blues Boy」となり、略して「Blues Boy」と呼ばれるようになった。これのさらなる略称が「B.B.」であり、名前の由来である[4]1949年、ナッシュビルのレーベル、ブレット・レコードに4曲を吹き込み、レコード・デビューを果たやんぐした。翌年には、ロサンゼルスのモダン/RPMと契約する[4]1951年末にシングル「3 O’clock Blues」がR&Bチャートの1位を記録[4]。これを機に以降、数多くのヒットを世に送り出す存在となった。1964年には、後に多くのアーティストが取り上げるスタンダード・ナンバーとなった「Rock Me Baby」を発表。1969年に発表された「Thrill Is Gone」のリメイク(原曲はロイ・ホーキンス)では翌年のグラミー賞を受賞した[5]。1970年代に入っても彼の活躍は続き、1951年から1985年までの間に実に74回もビルボードのR&Bチャートに曲を送り込んでいる。

1980年代から2000年までの間は、アルバムのリリースは少なくなる一方、テレビのショーへの出演やライブへの出演が多くなり、特にライブの回数は年に300回にも達していたという[4]1988年にはU2と「When Love Comes To Town」で共演、同曲は翌年にはシングルとしてヒットした。1993年には多くのブルース・ミュージシャンをゲストに迎えたアルバム『Blues Summit』を発表し、同アルバムでグラミー賞を受賞[5]1997年のアルバム『Deuces Wild』にはヴァン・モリソンドクター・ジョンローリング・ストーンズウィリー・ネルソン等、B.B.キングを慕うアーティストが参加。1998年には長いキャリアにおいて初のセルフ・プロデュース作品『Blues on the Bayou』を発表し、同アルバムでグラミー賞を受賞[5]2000年にはエリック・クラプトンとのアルバム『Riding With the King』を製作した。また、1998年に公開された映画『ブルース・ブラザース2000』では、クラプトンと共演している。

1987年ロックの殿堂入りを果たし[2]、授賞式にはスティングがプレゼンターとして出向いた。また1991年には、米国立芸術基金(NEA)の選定するNational Heritage Fellowship(日本の人間国宝に相当)にも選ばれている[6]

とにかくブルースをまったく知らない人でも名前ぐらいは聞いたことがあるだろう 有名といえばこbbれほど有名なブルースマンは、成功したといえばこれだけ成功したブルースメンはいないだろう

なにしろ「アトランタオリンピック」の閉会式からオバマ大統領の就任記念パーティーでホワイトハウスで演奏までしたブルースマンて・・・BB以外には考えられないよね

だからどちらかというと「マイナー」なものが好きな僕は若い頃は全然彼をいいとは思えなかった

あのまるでラスベガスの芸人が着るような豪華な衣装になんだか持って回ったようなクドい仕草

思わせぶりな派手なギタープレイと表情・・・「クサいよなあ」・・・イマイチ受け付けなかったのだ

ただ、あの当時の音楽評論家のトップにいた中村とうようが「あんなのはブルースじゃない」という意見には賛成できなかった 確かにわざとらしいんだが・・・ブルースじゃないとは言えないんじゃないかな・・・と

その抜けきらない疑問を晴らしてくれる一枚のアルバムにあるとき僕は出会った それが1965年にリーガル発表されてた「Live at the Regal」だった

当時、最も脂が乗りきっていてしかも黒人コミュニティーから絶大な人気を得ていた彼がシカゴにあった黒人専用会場「リーガル劇場」でやった演奏を収録したライブ盤だ

何が僕を動かしたか・・・それはオープニング、司会者が「Ladys and Gentleman ナントカカントカ・・」とハイテンションな声で呼びかけそして最後に「ビー~ビー~・キ~ング!」と叫ぶ

バンドが一斉に早めのシャッフルのイントロを演奏し始める BBが登場する すると客席からものすごい歓声が沸き起こる それもほとんどは女性の「キャ~~ッ!」という悲鳴のような声 そう、まるでビートルズのコンサートのような声が巻き上がったのだ

そして張りのある艶のある声でBBが歌いだす 「Everyday! E~veryday I have the Blues!」

もう客席は興奮のるつぼ・・・こんな状態が最後までずっと続く


そうだったんだ ソウルのキング ジェームス・ブラウンと同じく黒人大衆音楽のブルースの頂点に立つ男は間違いなく本物のそして最高のブルースマンだったのだ

次の曲を聴いてほしい このライブ盤に収録されている 「How Blue Can You Get」という曲だ


この曲は付き合ってた女に別れ話を切り出された男がうろたえて必死に思い留まらせようとするというような内容なんだが、その中にこんなやりとりが出てくる 後半ブレイクを入れながらトーキングスタイルで歌われてる部分だ

「お前には豪華なディナーをごちそうしただろう」「なによあんなの”スナック”じゃん」

「素晴らしい家を建ててやったじゃないか」「ただの掘っ立て小屋でしょ~」

などというやりとりがあって最後に男が

「お前には7人の子供を作ってあげたろう」と言うと女は「全~部返してやるわよ~!」と吐き捨てる

そのセリフの瞬間客席の女性ファンからもう「ギャ~~~ッ!!」という雄たけび、いや雌たけびが興る・・・これなんだよ これがブルースを支えてきた力なんだと思う

そしてもうひとつ、ぜひ話しておきたいことがある

それは今から10数年前のことだ

当時僕は吉祥寺で「からまつ亭」という蕎麦屋を営業していた 八ヶ岳からそば粉も水も持ってきimagesCALVWLG8て手打ちで、季節によっては山菜やキノコなど山の恵みを採ってきてメニューに出す そういうコンセプトで開いた店だった

ところがオープンして最初の2~3年ぐらいまではまったくお客が来なかった 毎月毎月赤字・・・

家族や親しい友人と離れて孤軍奮闘で毎日そば粉にまみれながら必死に頑張ったが一向に売り上げは良くならない・・・失敗だったか

僕は途方にくれた 毎日お客の居ない店の厨房にうずくまり暗いことばかり考えるようになっていた

店のすぐ近くを中央線が通っていた 当時、やたらと鉄道自殺が頻発していてほとんど毎日のように電車が止まったり遅れたりしていた

そのうち僕もなんとなく心の隅で「そうか・・・そうしたら楽になれるのか」などと考えるようにまでなっていた 希望の光がまったく見えなかった

そのときだ

たまたまその日店でBGMでBBの「Blues on the Bayou」というアルバムがかかっていた(僕の店は「ブルースが流れる蕎麦屋」だったのだ)

なんという曲だったのかは思い出せない スロウなバラードだったと思う

歌の歌詞の意味もわからなかった ただ、それを聴いてたらBBがこんなことを言ってるように思えたんだ

「あんたはバカさ どうしようもないバカさ でも・・・そんなあんただけど・・・生きてていいんだよ」

その言葉が心に浮かんだ瞬間・・・僕の中からブルースが吹き飛んだのだ

本当に「Blow My Blues Away」になったのだ

それから僕は思いなおしてまた一生懸命がんばった 3年を過ぎた頃から、少しずつだが店が軌道に乗りはじめた

そう、もしかすると今僕がこうやって生きてこんなことを書いていられるのはあの時のB B KINGのお陰かも・・・いやBLUESのお陰なのかも知れない

あの大震災の直後、心が折れそうになった僕を立ちなおらせたのは僕自身が歌うブルースだったビービー

みんな、どうかこの本等に素晴らしい音楽に少しでも近付いてもらえたら・・・それが僕の願いだ

今年でじつに89歳になるBBはだいぶ体力の衰えはあるがいまだに現役で演奏している

まだまだ元気でがんばってほしい

彼が亡くなったら・・・そのとき・・・アメリカの黒人のブルースの歴史が終わる

僕はそう思ってるのだ

あとがき 多くの方はご存知と思うが2015年5月14日 ついにこのブルース界の巨人が天に召されてしまいました この記事を書いた一年後・・・

その時は「悲しい」というより「ついにこの日が来た」というなんとも粛々とした気持ちになりました

ぼくが18歳のときに初めて出会ってそして今も続けているブルース BBはじめ沢山のブルースマンから音楽だけでなく生き様まで学んできた・・・これからも続けていくだろうこの音楽

多分20世紀で一番影響力のあっただろう音楽・・・これから僕らがどこまで行けるか

それは神のみぞ知る・・・かな  最後に僕らが演奏する「EVERYDAY I HAVE THE BLUES」をお聴き下さい ありがとうございました

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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