仲田修子話 16

「土蔵相模」戦後は「さがみホテル」と名前を変えて営業していた遊郭だが、今残ってる写真では元はこんな感じだった

この格子状になっている壁は「なまこ壁」と呼ばれ、主に土蔵などの外装に使われていた それで店の名前がそうなったようだ

戦後はそれが改装されて当時のモダンな外見になったようだ 昨日紹介したイラストはその様子を描いたものだが、その「幕末太陽傳」の冒頭シーンに一瞬その映像が出てくる

この写真なのだが、昨日紹介したイラストと入り口のアーチがそっくりだ この写真ではまさにこれから中に同伴で入って行こうとするプロの女性とアメリカ兵の姿、そしてそれを孫か子供に「見ちゃダメ!」とばかり言ってるような女性が写っている

修子が子供だった頃、まさにこういう光景が日常ありふれていた・・・それがその頃の品川だったのだろう

「色町品川」・・・そんな街だっただけに他の街には無いものが色々あったようだ

修子の記憶では街を歩いているとどこからか三味線を弾く音が聴こえていた 銭湯に行くとよく刺青を入れた女性が居たという

遊郭はその後昭和31年に施行された「売春防止法」によりすべて廃業に追い込まれホテルや簡易宿泊所になっていったが、その後も「カフェ」と名前を変えてこっそりと営業していた 入り口付近には申しわけ程度にイスやテーブルが置かれていたが、そこでお茶を飲む人など居なかったので「これはダミーだろう」と子供の修子にも理解できた

考えてみると仲田修子という人間は終戦後の日本の歴史とそのままシンクロする人生をずうっと送ってきたわけで、僕も彼女の話を聞くと本当に生の戦後史をそのまま見て居るような気になる

まだまだ日本の東京も戦後の傷跡をあちこちに残していた 修子より6年あとに生まれた僕でもたとえば街に出るとあちこちに「物貰い」の人が居たり以前「僕の吉祥寺噺」にも書いたように白衣を着て演奏する「傷痍軍人」の姿をしょっちゅう見ていた

修子の見たものはもっと生々しい ある日、連れられて上野の公園に出かけた すると公園の中には大勢の浮浪者や「戦災孤児」が居た 戦災孤児というのは今の人にはわからないと思うけど戦争で両親を失って孤児になってしまった子供たちのことだ 戦争中子供たちは大抵地方に「疎開」させられていてその間に東京に残ってた両親が空襲で死んでしまう・・・そういうことがたくさんあったわけで、そういう子供たちはグループを作ってかっぱらいや鉄くず拾いなどあらゆることをして飢えを凌いでいた

そういった子供たちが一杯いる中・・・持ってきたお弁当を食べようと包みを開いた うっかりしてその中にあったおにぎりを一つ修子は落とした するとどこからともなくサーッと現れた誰かがそれを拾い上げあっという間に持ち去ってしまった あっけにとられる修子だったが・・・「飢える」ということがどんなものか やがてわが身を持って知ることになる

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