そうそう、話がちょっと戻るが入学時に入部を希望したにもかかわらず不条理な理由で断られたブラスバンド部だが、その恨みは今でも消えてないという ものすごく感じの悪いその顧問はたとえば家でピアノなんかを習ってる大人しいお嬢さんみたいな生徒だけが好きで修子みたいな生徒は入れたくなかったんだと思う
修子が声を大にして言いたいのはそのときそのクラブに居た生徒でその後1人でも音楽の道に進んだ者が居ただろうか・・・きっといないに違いない そしてブラスバンド部を断られた自分だけがプロのミュージシャンになっていることを思うと・・・そう語る修子の言葉にはものすごい力がこもっていた
その頃の修子は勉強が面白くてしょうが無かった 教科書を学年の最初に受け取ると全部すぐに読んで問題も解いてしまった それが娯楽だったのだ だから実際の授業になるともうすでに自分は解いてしまってる問題を「さあ、皆で考えましょう」とか言われても、もう自分はわかっていることなので授業は退屈でつまらなかった もし日本にアメリカのような「飛び級」という制度があったなら中学1年から3年・・・もしかしたらもっと上まで行ってたかも知れない そのことはこのあと起きることを考えると二重に残念だったと思う
修子の父親は相変わらず厳格な教育者でつねに「マダムキューリーみたいになれ」と言い続けていた 修子は彼から褒められた記憶がほとんど無い
たった一回だけ父親から誉められた記憶は中学生になったとき
絵を描いていたとき、美術の教師から抽象画という概念を教わって子供部屋で抽象画みたいな絵を何となく遊びでクレパスで画用紙に描いていた(絵は参考の映像)
そしたら父親が部屋に入ってきてそれを見て「なかなかいい絵だ」と誉めてくれた これがたった一回だけ誉められた記憶だそうだ
テストでよく100点を取っていた修子だったが それを家に帰り父親に見せると喜ぶどころか笑顔ひとつ見せずに「これで喜んで気を緩めちゃだめだ」とかえって怒られた 修子はそれが理解できずに「何でだろう」と不思議に思った そのくせ父は会社では「娘が100点取った」と自慢していたらしい(それもかなり後になって知ったことだ)
100点取った日、修子ははいつも空を見た。大概晴れた青空だった 100点と書いてある答案用紙を持って空を見上げると、空と一体になったような気がした
そしてこの空の景色と、この気分を私は一生覚えていようと思った
そして70歳を過ぎた今もあの空とその時の気分を修子ははっきりといまだに覚えている
(筆者脚注;この写真を撮影した日の夜、高円寺周辺はものすごい雷雨に見舞われた その後梅雨入りしてしまい これ以来青空は現れていない)
高円寺ライブハウス ペンギンハウス