仲田修子話 42

そしてその入院中、修子は初めて煙草を覚えた それは同じ神経科に入院していた患者の1人に「船医」をやっていた人が居て、彼が「ゲルベゾルテ」という強いドイツ製の煙草を吸っていたのを見てすごく吸ってみたくなって「それ1本下さい」と言って貰ったうえ彼に「これはどうやって吸えばいいんですか?」と訪ねると「思い切り吸って肺まで煙を吸い込めばいいんだ」と教えてくれたのでこっそりとトイレに行って煙草に火をつけ言われたとおりに思い切り肺までぐうっと吸い込んだ

とたんにクラクラっときて、とても立っていられなくなりトイレの中でへたりこんだ しかし、その感覚が素晴らしくいいなと思い、煙草をいつもその人から貰うわけにもいかないので、こっそり病院から抜け出して近所の煙草屋でショートホ-プを買ってきて吸ってみた そうしたら3~4回目くらいからは慣れてしまってもうクラクラすることは無くなったが、代わりに煙草が止められなくなった それが修子の煙草キャリアの始まりだ

病院は開放病棟で自由に外出できたし他の患者たちと世間話をしたりと・・・病院生活はけっこう楽しかった

しかし、退院するとまたモノクロの世界に戻ることになる

その頃母と弟は栄町から埼玉の「鳩ヶ谷」というところのアパートに引越していて修子もそちらに移り近くの川口にあった煎餅工場に働きに行くことになった

その作業も単純作業 焼けてきた煎餅1枚1枚に海苔を貼ってゆくというもので、前にやってたのより肉体的には楽だったが相変わらず仕事はつまらなかった それだけならまだガマンもできたかも知れなかったのだが、ただその作業員の中に頭の悪そうな同い年くらいの娘がいてそれが演歌歌手志望で朝から晩までヒドい音程で大声で演歌を歌い続けていたのに頭にきて「うるせえ!バカヤロウ 黙れっ!」と怒鳴りつけたらその娘はびっくりして泣き始め、周りのおばさんたちは「あんた、ちょっと可哀相じゃないか」と批難するので 「こんなところに居られるか!」と思い、やはり半年くらいでそこも辞めた

その後はまた王子のほうへ引越しをし、今度はパン屋の一角の4畳半(やはり家賃は5千円)を間借りしてそこで暮らしはじめた そこにはかなり長く住み続けた

そしてその後も色々なところで働いたがどこも似たようなものだった

その中でも修子は「私は今はこんなことをしているけどこんなんで終わる人間じゃない」と思い続けていた それまで職安でしか仕事を探してこなかったが結局いつでも工場などの仕事しか就くことが出来ないので これじゃダメだと思い仕事探しのやりかたを変えることにした

挿入曲「地下鉄ブギ」
作詞作曲:仲田修子 2008年ペンギンハウスライブ より

1975年の東京地下鉄路線図

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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