錦糸町の店での仕事の翌月から修子は、六本木の繁華街にある2軒の店をかけもちで演奏する仕事を始めた 。この「かけもち」という仕事に就けるのは、弾き語りの中でも最もグレードが高いクラスのシンガーで、修子の弾き語りシンガーとしての実力はこの世界に入って3年目くらいでもうこのレベルにまでなっていた。
「かけもち」をわかりやすく説明すると・・・AとBという店がある AとBは歩いて2〜3分くらいの距離にある
まずAで30分演奏して、対バンが演奏している間かインターバルの時間にBに移動してそこでまた演奏する。
「かけもち」をやるときはギターはそれぞれの店に1台ずつ置いておき、クリアファイルに沢山の譜面を入れたものを4冊くらい持って、ものすごい速足で移動してAからBに行き30分間演奏しては、またファイルを抱えてAに戻るということを4回繰り返す。
従って休憩は全くなく4時間を歌いっぱなし ・・・この仕事を修子は2ヶ月間勤めた。
当時は若くて体力も充分にあったので(中学校時代の修子のアスリートぶりを思い出してほしい)それ自体は別に苦ではなかったが、一つだけ困ったことがあった。
そのAとBの間の通り道に別の店の客引きがいつも居て、どうしてもその前を通り抜けなくてはならないのだ。
そこを毎日4往復していたので、修子はすっかり彼らに顔を覚えられてしまった。 別に声をかけられるというようなことは無かったのだが、何となく恥ずかしくて譜面の入ったファイルで顔を隠しながらそこを通り抜ける・・・そんな毎日だった。
その労働に対して2軒の店から1ヶ月にそれぞれ14万円のギャラが支払われた。 だから2店舗を合わせると月に28万円の収入になった。
これは当時としてはとんでもない高収入だった。 データによると1970年のサラリーマンの平均年収が871,900円 1月に換算すると72,658円だから・・・今の時代だったら・・・ああ、もう計算するのもイヤになってきた(笑)とにかく凄かったのだ。
修子はそれまでの仕事は口コミなどを使って自力で探していたが、この仕事のオーディション(当時はテストと呼ばれていた)を受けるためにあるプロダクションを通して紹介してもらった。
渋谷の裏路地にあったそのプロダクションの名前は「ジュダス」(ユダヤ人という意味だ)と言い社長のほかにマネージャーが3人居たが、実はこの後このプロダクションと修子とは長く深い関わりを持つことになるのだが・・・その話はいずれいつかすることにして、その六本木の仕事についての話にもどる。
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