仲田修子話 93

その2軒の店ともホステスなどは居なくて、六本木という場所柄もあって以前修子が勤めた銀座の「アーサーベル」に比べるとちょっとポップでお洒落な感じのインテリアだった 「テレビ朝日」などマスコミ関係の企業が近くに多くあるというのも関係していたのだろうが、客層には普通のサラリーマンよりは芸能人や有名人やいわゆる「業界人」と言われるような人種が多かった
たとえばある日のことだが店に後に相撲界の大横綱になる「北の湖」がお客で来ていた その時の様子に修子は強い印象を受けて覚えている それは彼がそのとき2人の明らかに風俗系の仕事をしてるような女性たちと一緒に来ていて、演奏をしている修子の目の前でものすごく真剣に彼女たちの悩みごとの相談に乗っているようだったのだが、その時の彼の話す口調がちっとも偉そうではなく、まるで彼女たちの友人のように「違うよ、そういうときはこうすればいいんじゃない・・・」とか優しい口調で喋ってるのを見て修子は「この人っていい人なんだなあ」と思った

今の人にはよくわからないと思うのでこの「北の湖」についてちょっと紹介しておこう

「北の湖敏満(としみつ)」は1953年に北海道で生まれた 13歳で「三保ケ関部屋」に入門 幕内に入ってからはみるみる出世しその後第55代目横綱になる 彼の相撲はとにかく強い なかなか負けない 安定感が有りすぎるうえに勝っても無表情で面白みがなく、それだけ強いのになぜかあまり人気が無かった 当時はやはり横綱の「輪島」(のちにプロレスラーに転向)のほうが人気はあった 取り組みでは北の湖が負けたほうが客が喜んだという  あまりに強いのでスポンサーも懸賞を出し渋り、横綱の取り組みにもかかわらず懸賞の垂れ幕が1本も出ない・・・なんてこともあったくらいだ

生涯の成績は951勝350敗107休(109場所)1985年の1月場所で引退 その後親方となり「北の湖部屋」を創設 のちに人柄や指導力をかわれ(やはり面倒見がよかったようだ)「相撲協会理事長」をつとめ、相撲の人気回復や問題解決などに尽力していたが2015年に病死した

六本木での弾き語りの存在は店にとってはお洒落な・・・動く音を出す飾りや調度品・・・といった感じだった 演奏をちゃんと聴くというよりはBGM的に流れている・・・といった受け止め方をされていたので、埼玉の「ホストクラブ」のように曲を聴きながら踊るお客も居なかったし、錦糸町の店でのようにお客からリクエストが来ることもあまり無かった

以前の錦糸町では修子は歌謡曲や演歌を主に歌っていたが(それぞれの店の雰囲気や客層に合わせて選曲をするのは弾き語りのプロとしては当然求められる条件だ)六本木ではほとんど洋楽、ジャズのスタンダードナンバー、たとえば「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」「オールオブミー」「酒と薔薇の日々」「シャドウ・オブユア・スマイル」などといった曲を演奏していた 当時の修子のレパートリーはすでに200〜300曲くらいに増えておりビートルズの曲だけでも「イエスタデイ」「ミッシェル」「イエローサブマリン」「フールオンザヒル」など10曲は歌えた

歌いながら「この曲を作った人はなんてすごいハーモニー感覚を持ってるんだろう メロディーもコードの展開もすごいなあ」と感心したが、別にシビレたりはしなかったしビートルズのファンにはならなかった
プロの弾き語りシンガーをやっていた修子にとってはビートルズもコール・ポーター(*)も仕事のための「素材」で、同じようなものでしか無かった

*コール・ポーターは1930~50年代に活躍したアメリカ人のソングライター 多くの映画音楽なども作ったが有名なところでは「ラブフォーセール」「ビギン・ザ・ビギン」フレッド・アステアでヒットした「夜も昼も(night and day)」などがある


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