仲田修子話 108

こうして「ライブミュージシャン」そして「シンガーソングライター」としての道を歩き始めた修子 しかし、その行く手にもさまざまな苦難が待ち受けていた

まず環境の変化 「ライブハウス」にはそれまで修子が通っていた「ハコ」とはまったく異なる人種が集まっていた この世界に入ってきたばかりの修子を驚かすようなことも色々とあった

もちろんハコに出ていたときのように好きでもない歌を歌うこともしなくて良かったし、無理して愛想笑いを作る必要も無かった

その真逆で修子は歌いたい歌だけ歌ったし、その当時の彼女がステージをやっているときの表情はどこか怒っているようで、時々客席からは「怖い!」という声が聞こえてきた

何しろ金のためでもなくもちろん人気など有ろうが無かろうが当時の彼女には大して意味など無かった

その当時の彼女がどんなステージをやっていたか・・・それを伝える貴重な資料が実は残っている それは70年代中頃に渋谷の「屋根裏」(注)というライブハウスで行ったワンマンライブの模様を収録した1本のカセットテープだ これは現在でも「重要機密資料」として厳密に門外不出なので、公開するわけにはいかないが、その頃すでに「シンデレラのお姉さん」や「国立第七養老院」などの曲が収められている 歌声は今聴くと20代の頃の瑞々しさに溢れていて弾き語る伴奏のギターも素晴らしいのだ

ただそこでの彼女はまるで手負いの狼(いや、クマだったか)のように異常なくらい殺気立っている 今の「仲田修子ライブ」で見せる暖か味とウィットとユーモアが溢れる包み込むような修子はまだそこには居ない とにかく悲痛なほどに孤独に何かと闘っている姿が浮き上がってくる

ところで、この「渋谷屋根裏」でのワンマンライブにはひとつの前置きがあった

その前にも修子はここでライブをしたことがあった それはその店がオープンした直後のことだったらしく修子がそこへ行って驚いたのはリハの前後に店の経営者らしい男がハンマードリルを持って店の壁に穴をあける工事をしていたという

しかし、その時はワンマンではなくほかに幾組かの対バンが居た

そこで事件が起こった 修子の出番は対バン5組の中の一番最初だった 彼女が演奏して引っ込むとすぐに次の対バンの出演者が出てくる・・・そういうタイムテーブルになっていた

ところがいつまで経っても次の演奏者が出てこない なんと修子の演奏を見てそのあまりの凄さにビビって出てこれなくなってしまったのだ(こういう状態のことを「撃沈」と呼ぶと最近パンク系の友人Eが教えてくれた)

急きょ30分の「休憩」が挟まれることになった

こういった「修子伝説」はその後もあちこちで巻き起こることになってゆく

注;「渋谷屋根裏」1975年に「センター街」にオープンした渋谷で最も古いライブハウス 同年12月にはパンタ率いる頭脳警察がここで解散ライブを行い、1979年にはフリクションやリザードに代表されるパンク~ニューウェイヴ・ムーヴメント=「東京ロッカーズ」をドキュメントした伝説的な映画「ロッカーズ」にも登場した その後下北沢に移転するが1997年にまた渋谷にオープン しかしその後経営状況の悪化により当営業地での運営が困難となり2013年に閉店 (添付写真は当時出ていたRCサクセション)

「第一期」の屋根裏ライブに関する情報を伝える動画は当時まだスマホはおろかビデオカメラもほとんど普及してなかったのでまず残っていない 唯一YOUTUBE に残ってたのがこの映像 まあ・・・こんな店でした ちなみに最初の渋谷店は雑居ビルの3階にありその下のフロアーが風俗店で、ライブを観に来たお客はその風俗店の呼び込みのお兄ちゃんの横をすり抜けて3階まで上らなければいけなかった


高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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