仲田修子話 111

この「お夏」という曲は今では修子は滅多に歌うことはないが初期の名作のひとつだ

元は歌舞伎の「お夏清十郎(注)」という演目をテーマにしていて邦楽スタイルの楽曲を見事に洋楽と融合させている これぞ品川育ちの仲田修子の真骨頂ともいえる曲だ 彼女が「自分の曲には何の個性もスタイルも無い」と思い込んでいたのとは裏腹だった

そして審査が終り順位発表が・・・すると・・・結果修子は4位だった

じつはこれにはウラがあった・・・というかよくある話なのだが、このオーディションはいわゆる「出来レース」で、最初から応募者のうち1~3位まではすでに決まっていて、だから実際のところ本当のトップは4位だった修子ということになる その証拠に・・・

結果が4位だったので「ああ、こんなものか」と思い、修子は付いて来た2人のマネージャーを従えてギターケースを持ちさっさと会場を立ち去ろうとした

するとその修子目がけて審査員をやっていた5社のレコード会社のディレクター全員が 名刺を持って一斉にダッシュしてきたのだ そして先を争うように「ぜひうちに私に連絡してください!」と声をかけてきたのだ

もらった名刺はマネージャーが預かり修子たちはその会場をあとにした

後日事務所はその中から「テイチクレコード」と契約の話を進めることに決定した 修子の要求としてアルバムを出すのではなく、シングルレコードを次々と出すという条件をむこうが受けてのものだった

そしていよいよレコーディングに向けてスタジオの押さえとか日程などもほとんど決まっていたとき、東芝レコードのあるプロデューサーから「待った」がかかった

東芝側もかなり熱心に修子に対してアプローチしていたが、そちらはこんな条件を出してきていた

それは修子が北海道の放送局で1年番組を持ってそれからアルバムデビューさせるということ

しかし、東京からは離れたくないしそんな北海道の知らない土地に住んでなんてことはゴメンだ・・・と修子は断り続けていた そしてすでにテイチクからこういう条件でレコードを出すことになっている告げた

そのことに腹を立てた東芝のプロデュ-サーはあの手この手を使ってテイチク側に圧力をかけ・・・ついにこの話は立ち消えになってしまった

注;「お夏清十郎」(別称;「お夏狂乱」)という歌舞伎の演目は寛文2年(1668年)に実際に当時の播磨藩姫路で起きた駆け落ち事件を題材にして書かれた 姫路城下の旅籠の大店・但馬屋の娘・お夏は、恋仲になった手代・清十郎と駆け落ちするが、すぐに捕らえられてしまう。清十郎はお夏のかどわかし(誘拐)に加え店金持ち逃げの濡れ衣まで着せられ打ち首となる。それでお夏は狂乱して行方をくらませ、誰も二度とその姿を見ることはなかったという

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

出演するには?

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする