仲田修子話 115

ある時、修子は中央線沿線の奥のほうにあった店にライブをしに行った その店の名前は覚えてない 広い一軒屋の一角が店になっていてそこでライブをするのだが、なんかヒッピーみたいな人種のたまり場になっていた

彼女の演奏を聞いていたお客の1人がこんなことを口にした「まるでレコードを聴いてるみたいだ」 思えばもしかするとそれはその人にしては褒め言葉だったのかも知れないが・・・それを聞いた修子は悪口を言われたと思いカチンと来ていた

それにさらに火をつけるように彼女のライブが終わってしばらくして、やってきた客が店の人から「もうライブは終わったよ」と言われ、それに応えて大声で「ああ、良かった~」と口にした

その瞬間ここで修子のリミッターが解除された 立ち上がりその男を睨みつけ大声で叫んだ

「ここには人間は居ないのか!なんだその態度は!こんなこと言わせて・・・それでライブハウスやる資格があると思ってるのか!」と啖呵を切り、踵を返すとその手でギターをがしっと抱え「帰る!」と怒鳴った

慌てて「あの、車で送りますから」と言う店の人間の申し出を振り払い、修子は独りで電車に乗り北沢の家に戻った ちなみにそのみせはその後本当にライブを辞めてしまったという この一件はそれで終りに見えたが、後日談がある

それからしばらく経ったある日・・・その店での修子のことを聞いたという男女3人がいきなり北沢の家を訪れてきた・・・

しかし、一体どこでどうやって自分の住所を知ったのか解らなかったし、そもそもなんでわざわざ訪ねて来たのか・・・彼らのその行動の意味が解らず「ヤバい」と思った修子だった

ところでここでちょっと出てくる「ヒッピー」についてあらためて考えてみた

日本という国は安政6年(1859年)に徳川幕府が「鎖国」を解除して「明治維新」になったことをきっかけに一気に西洋文明を取り入れはじめた それまでのちょんまげ、着物を捨て洋服を着て外来の「ジャズ音楽」(ここでのジャズはJAZZだけでなく、ラテン、シャンソンなどの洋楽全般を言うが)を聴き洋食を食べる「モガ、モボ」を生み出した そういった西洋志向は太平洋戦争で一時封印されていたが、日本がアメリカに負けて植民地状態になるとさらにエスカレートしていった

それまで1000年以上も続いた「米主食」を捨てパン中心の「小麦粉主食」に変わり、コカコーラを飲みハンバーガーを食べるのが当たり前になっていた

ただ、アメリカ文化といってもただそのまま飲み込んでいたわけではない 外来の文化や風俗を受け入れるときにそれをそのままではなく日本流に仕立て直してしまう・・・そういうところがある たとえばアメリカ音楽の「Folk song」「Rock」は日本に来ると「フォーク」「グループサウンズ」となって「歌謡曲」に飲み込まれてゆく


「ヒッピー文化」も本家のアメリカでは1960年代に政府のベトナム戦争に対する政策に反発した若者たちが反戦、徴兵拒否などの運動をしながら当時の体制社会から離れ田舎で自給自足の共同生活「コミューン」などを作りたとえば音楽では「グレートフル・デッド」に代表される独自の社会文化を作って来た 日本では徴兵制が無いということもあって「平和」という言葉の持つ重みもあまり無い中そういうものの精神的な部分は除外して、ファッションやマリファナなどを真似て取り入れて形だけ追いかける・・・そういう傾向が強かった

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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