仲田修子話 125

その頃、修子たちはどのような日々を過ごしていたか

ライブが無いときは修子は相変わらずハコやトラの仕事を入れていた 有海や増田もたまにハコに行ったりしていた

ライブ活動のほかに修子たちはある活動をしていた それは毎月1度、吉祥寺の南側にある「井の頭公園」にある野外ステージでフリーコンサートを開くことだった

コンサートのタイトルは「ロウソサエティー月例コンサート」 「ロウソサエティー」という名前は修子が考えたものだが、もちろん「ハイソサエティー」に対する反語の意味を持っている なおこの名前はその後彼女たちが設立した会社にも使われ「ロウソサエティー企画室」となって現在に至る

この「ロウソサエティー月例コンサート」には特徴があった 今ではごく普通になっているが当時では珍しい「フリーコンサート」だった 入場料はもちろん無し これはまあ公園の真ん中にある開放されたスペースだったから勿論そうなるし、管理する公園事務所でもその場所での有料のイベントなどは認可されなかったのもある それに加えて出場者からも1円も金を徴収しない これは当時としてはむしろ珍しいほうだった そして出演の条件 それはただひとつ 「早いもの順」・・・これだけ

ジャンルも経験も一切問わない そもそも修子には「音楽の上手いとか下手とかの評価自体意味が無い」というポリシーがあった

当時はそのコンサートの告知を毎月1回発行される情報誌「ぴあ」に掲載して電話で申し込みを受けていたが、受付を開始するとあっという間に予約の申し込みで定員になるほど参加希望者は多かった

そのコンサートは営利的目的は一切無かったので、かかる経費・・・1回の会場利用費1万円に機材を運ぶレンタカーの料金、それにそのPA機材の購入費用もすべて修子のポケットマネーから出されていた コンサートの運営は主に有海と増田の2人それに修子の友人で弾き語りシンガーをやっていたKが担当していた

修子はそのコンサートに出演することも滅多に無かったが、ある日・・・

いつもそのコンサートを開いてる野外ステージのまん前の席に陣取って演奏などには一切興味も示さず将棋を打ち続ける老人たちの一団を見て彼女はあることを思い立った

ギターを抱えてステージに立ちそして1曲歌ったのだ その曲は「淡屋のり子(注)」の「別れのブルース」


するとそれまでただの一度もステージの方なんか見向きもしなかったそのおじさんたちが顔を上げ修子の歌に聴き入ったのだ

さすがハコの世界で百戦錬磨の彼女にとって、それはいとも容易いことだった

注;「淡屋のり子」 1907年生まれ 青森県青森市出身の女性歌手。 本名:淡谷 のり。日本のシャンソン界の先駆者であり、ブルース(ここでの”ブルース”はダンスのステップの名前から来ている)と名の付く歌謡曲を何曲も出した由縁から「ブルースの女王」と呼ばれた 1999年死亡

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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