僕のブルースマン列伝 29

さあ、ずっと続けてきた僕のブルースマン列伝も今回を入れてあと3回で一旦終了させてもらうことにする

そのうちの2人はもうすでに決まっている 残る一人を誰にしよう・・・色々紹介したいのはあるんだけど・・・この人・・・どうしようか・・・大好きでもあり、嫌いでもある・・・彼への気持ちは複雑だ

でも、やっぱり生で自分の目で観てそのときの思いも深いこの人にした それは

オーティス・ラッシュ Otis Rush   オーテス

1935年4月29日[1][2][3] – )はアメリカ合衆国ミシシッピ州フィラデルフィア出身のブルースギタリストシンガー。50年代のシカゴにおいてバディ・ガイマジック・サムらとともに、リード・ギターを前面に打ち出した、新たなシカゴ・ブルースのサウンドを切り開いた。その斬新なサウンドは、当時ウェスト・サイド・サウンドと称された。

左利きながら、右利き用に弦を張ったギターを逆向きに持って弾くユニークなスタイルを持つ。同様のスタイルには、有名なところではアルバート・キングがいる。通常の弦の配列に比べて、より高い弦でのチョーキングがしやすいと言われている。

コブラ・レーベルに残した初期の録音、”All Your Love”や”Double Trouble”などは彼の代表曲となっている。ロックのギタリストを中心に、影響を受けたミュージシャンは多い。エリック・クラプトンも大きな影響を受けた一人で、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ時代に”All Your Love”を、またソロになってから”Double Trouble”、”Groaning The Blues”をカヴァーしている。スティーヴィー・レイ・ヴォーンは、バンド名をオーティスの曲名から「Double Trouble」と名付けている。意外な所ではエアロスミスが”All Your Love”をカバーしている。

ギターのチョーキングビブラートが特徴的。彼はレコーディングの機会に恵まれていたとは言い難く、実力のわりには作品は少ない。2004年脳梗塞で倒れ、以来リハビリを行っている。日本人の妻をもち、親日家であるという

8歳の頃ギターを始める。1956年、コブラ・レーベルより”I Can’t Quit You Baby”でデビュー。この曲は、レッド・ツェッペリンのカヴァーで有名である。1958年まで同レーベルで計16曲をレコーディングをした。コブラの作品は、ラッシュは殆どギャラを手にすることはなかったという。レーベルも1959年には倒産してしまった。

続いてラッシュは、チェスの扉を叩く。しかし、ここでは1960年1月の1セッションで8曲が吹き込まれ、2枚のシングルがリリースとなった。チェスのセッションでは名作”So Many Roads”が生まれている。1969年には、編集盤アルバム「Door To Door」にこれらのシングル2枚を含む計6曲が収録された。

ラッシュが次にレコーディングをしたのは、1962年デューク・レーベルでのセッション。しかし、ここでもシングル”Homework”1枚のリリースに終わる。この曲は、後にJ.ガイルズ・バンドが取り上げるなどして幅広く知られるようになった。ラッシュ自身も1994年のアルバム「Ain’t Enough Comin’ In」で再演している。

1966年にはヴァンガードのセッション、またヨーロッパのアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルにも参加するなどした。1969年には、エレクトリック・フラッグマイク・ブルームフィールドニック・グラヴェナイタスのプロデュースの下、初のアルバム・レコーディングを行った。(「Mourning In The Morning」)ソウルの名門スタジオ、アラバマ州マッスルショールズのフェイムでレコーディングされ、ロック、ソウルのテイストを大胆に盛り込んでいる。

1971年、アルバム「Right Place, Wrong Time」のレコーディング・セッションをサンフランシスコで行うが、なぜかレコード会社のキャピトルはでき上がった作品をお蔵入りにしてしまう。この作品が日の目を見るのはレコーディングから5年も経ってから。オーティスが版権を買い取り、1976年、米国ではブルフロッグ・レコード、日本ではPヴァインがリリースした。

1970年代は他にデルマークなどから発表している。1975年には「第3回ブルース・フェスティバル」出演のために初来日。このときに、のちの夫人となるマサキと出会う。1970年代末から1980年代前半にかけて、オーティスの活動は減速していく。スタジオ作は1978年のヨーロッパ・ツアー中にレコーディングした「Troubles Troubles」を最後にしばらく、遠ざかってしまう。演奏活動のペースも落ちて行ったようである。

そんなオーティスが再び活動を活発化させたのは1985年のこと。同年、米国ツアー中にレコーディングしたライブ・アルバム「Tops」は、彼の復活を感じさせるには充分の内容だった。翌、1986年には11年ぶりの来日公演が実現。日本を代表するブルース・バンド、ブレイクダウンと全国6都市を回った。ツアーはするようになったものの、その後もスタジオ作はなかったオーティスだが、1994年、実に16年ぶりとなる「Ain’t Enough Comin’ In」をリリース。1998年には続くスタジオ作「Any Place I’m Going」をリリースし、同作はグラミー賞を受賞した。しかし、以後再び新作からは遠ざかっており、現時点ではこれが最新作である。

以上「Wikipedia」より


オーティスライブ

このブルースマンのライブを生で観たのは1975年の「第三回ブルースフェスティバル」・・・その後色々物議を呼んだあのイベントだ

僕が観た会場は日比谷野音・・・雰囲気としては夏だったし最高だった

最初に出たのはカントリーブルースの「ビッグ・ジョー・ウィリアムス」 以前ここで紹介した人だt02200158_0400028711976493842

その次に登場したのがピアノ弾き語りの「リトル・ブラザー・モンゴメリー」・・・この人については僕はリトルほとんど知らなくて、まあかなり色々な人とのセッションをした人だくらいの認識しかなかったのだが・・・実際このフェスが終わってみるとあの日の出演者の中でこの人の演奏が一番艶と輝きを持っていたと思った ブルースマンというよりはニューオリンズあたりでずうっとやってきた芸人というかバンドマンなんかが持っているカッコよさと粋な感じがこの人のステージからはすごく伝わってきて、聴いてる会場からなんかため息が漏れてきそうな演奏だった

さて、問題の人の登場となる

その前にそのバックをつとめる「ジミー・ドーキンス バンド」が登場するドーキンス

あとでムチャクチャ悪評を買った彼らの演奏を僕は聴いてて「下手でダサイなあ・・・」とは思ったが、結局その当時のアメリカの黒人の大衆音楽のトップでない部分て、そんなものだろうなあと思ったくらいだった

そしてオーティスが登場・・・うん、まず”上手いなあ”と思った だけどなんていうか「オーラ」みたいなものがあまり感じられなかった(それは前に観たロバート・ロックッドとは全然違っていた)

バンドとの息が合わないのは可哀相だけどそれもバンマスの責任だ ギターも歌もいいんだけど・・・生で観ているこちらに伝わってくるべき何かが足りない ブルースが「ひとつのエンタテイメント」であると考えるなら・・・それはそれでいいのだけど

後にそのバンドを仕切りきれなかったオーティスを本当にひどくこきおろしたブルース評論家に「あれは悪いのはジミーバンドではなく、それを抑えられなかったオーティスに責任がある いいかげんにしろ! やるのかやめるのか」とまで言い切られてしまったその夜のオーティス・ラッシュ・・・実際のところはどうだったんだろう

最近はYOU TUBEなどで彼のライブの様子がけっこう観れるが、それらを色々観てるとなんとなくわかってきたところがあった

ああ、彼って 気が弱いんだなあ・・・ 僕はそう思った

自分よりあきらかに格下のプレイヤーに対して毅然たる態度を取れない

観客に自分の本当の凄味を見せ付けることができない

いつもなんだか変にニヤニヤしながらオドオドしているようなちょっとダメな奴

才能や実力は本当に抜きん出て凄いのに・・・いつもなんとなく出し切れない・・・

だからたまに彼がそういう中でたまにちらっと見せるオニのようなプレイを観てしまった人々は”それ”がラッシュ見たくって彼の演奏をまた観に行ってガッカリして帰ってくる・・・そういうことが何度もあったんだろうなあ

もうずうっと昔、日本のブルースシンガー近藤房之助のオープニングアクトを当時僕が加わっていたバンドでやったことがあるが、誰よりもオーティスが好きだと公言している彼もちょっと似たようなところがあるなあ・・・そうその時は感じた

ブルースマンって”スーパーヒーロー”みたいな人ばかりだけど、こういう人たちもある意味では本当にブルースマンらしいのかもしれない

とまれオーティスが素晴らしいブルースマンであることは間違いはない こんな素晴らしいプレイができた人なんだから  過去形で言うのは2004年に脳梗塞で倒れて今はまったく音楽活動ができなくなってるそうで・・・残念だねえ

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする