仲田修子話 151

その頃から「バンド文化」と言えるようなものが生まれてきた それは主にライブハウスなどから発生していた 音楽をやる若者たちは、それまでメジャーの音楽雑誌や情報誌から得ていたものを、今度は直接ライブハウスなどで出会ったほかのバンドたちと交流したり情報交換したり、ときにはメンバーの交換をしたりとか・・・それまでの「バンドやろうぜ」という掛け声が今度は「俺たち企画やろうぜ・・・」というようなものにも展開していった

そういう文化にスタジオも大いに関わっていったわけで、オレンジスタジオの休憩ブースの壁には、もうびっしりと手書きの「メンバー募集中」とかライブや企画のお知らせのフライヤーやポスターが貼られていた

そしてこの頃から今まで世間一般とバンドの間にあった大きな壁が取っ払われはじめた

たとえば修子や筆者がうんと若い頃、もうバンドをやってるだけで「不良」とか言われていたのだが、子供のバンドのライブを親が観に来るなんてのが普通のことになっていたのだ

オレンジスタジオは「大塚」という地理条件から、近辺の大学の学生たちのバンドが多く集まるようになっていた 「立教大学」「学習院大学」そして「都電荒川線」を使うと1本で来られる「早稲田大学」など・・・どこもいわゆる偏差値の高い良家の子女が多い学校だ

その頃、オレンジの常連で早稲田の学生で結成されていたバンドが居た 彼らはジャンルでいうと「ヘビーメタル」だったが、ステージで過激な衣装とメイクをするのでそのユニークさで人気が出てきていたが、練習はもちろんスッピンでやっていた

ある日、彼らのメンバーがライブ告知のフライヤーを持ってきた それを見た有海は彼に話しかけた 「へえ、今度コンサートやるんだ~バンド名は・・・せ、せ・・・うえ・・・?」

「あ、それセ・イ・キ・マ・ツって読むんです」ステージではモヒカンのカツラを被るドラマーの彼は笑いながら答えた

そう・・・つまり「世飢魔II」だ

その時期・・・修子はバンド活動は封印してひたすら事業に集中していた しかし、そればかりをやっていたわけでは無かった

それは1978年の秋のことだ

ひとつのコンサートを修子は企画した そのタイトルは

「パンク・ニューウェーブ 日本の場合」

これは修子のある好奇心から始まったことだった

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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