仲田修子話 154

さて、皆さんは「猫屋敷」という店があったのを覚えているだろうか

修子たちが営業バンドの仕事から「大久保スタジオ~オレンジスタジオ」の経営に奮闘してい た間にも「猫屋敷」ではネコマスとジミーが地道に”しぶとく”頑張っていた オープンして3年を過ぎた頃には常連客もかなり増えて、営業成績もそこそこ良いところまで来ていた

主にソロの弾き語りやアコースティックの小編成のユニットが多かったが、時には5人編成のドラム入りのバンドが出るなんてこともあった しかし、なんと言っても狭さ・・・そしてフロアーの真ん中に鎮座する2本の太い柱が、演奏者と客席のあいだを強力に妨害していた

「日本一狭いライブハウスだ」・・・と半ば居直ってお客や出演者にアピールしてはいたが、それでも当時はなかなかいい出演者が出ていた 今もブルースシーン界隈で大活躍している「町田謙介」・・・当時は「ねずみ男」という名前であの独特のしわがれ声で旧いブルースなどを歌っていた もう亡くなってしまったが、ブラジル系ギタリストでよく知られた「佐藤正美」もよく出演していた ほかにもジミーが「ブルースギター教室」をやったりと、高円寺の音楽シーンの中でもなかなか頑張っていたのだ

しかし、いかんせん狭かった これも何時かは何とかしたい・・・修子はそう思っていた

スタジオの経営がかなり軌道に乗ってきたころ、修子はついに猫屋敷のあとを引き継ぐ広いスペースを持つ、ライブハウスのオープンに向けて動き出した

修子は再び高円寺界隈で空き店舗をさがしてみた すると猫屋敷のすぐ近く、高円寺駅のほうへ少し戻った商店街の中に空いている物件が見つかった 小さなビルの地下で、広さは30坪くらい・・・前はピアノパブが営業していたそうで、下見に行ってみるとそこにはまだピアノカウンターが残っていた 「地下」という条件は絶対的だった ここならかなり大きな音を出しても大丈夫そうだった

さっそく契約へと話は運び、店の造作の工事にかかることになった 修子は経営方針を考えた まず最初は当時流行っていた「カフェバー」スタイルの店にする カフェバーブームがいずれ去るだろうから、その後は「ライブ」をメインとした「ライブハウス」として営業してゆく・・・こういう方針で進めることにした

今回の出店には多くの経費がかかる かなりの借金も抱えてのスタートだった

内装工事の経費を少しでも軽減しようと、ここでも修子やほかのメンバーたちも率先して工事の作業に参加した あの「大久保」「オレンジ」の2つのスタジオを作った経験が、彼らをなかなかの職人に育てていた この内装で修子が一番こだわったのが「床」 とにかく丈夫で耐久性のあるものを・・・ということで、コストはかさむが、合板や集積材ではないムクの「カシ」のフローリングにした その床板を張る作業を修子自身も金槌を手にしてやった

厨房も猫屋敷のカウンターとは比較にならないくらい設備が整っていた 瀬山の意見で大きな本格的業務用ガスオーブンも導入された 彼の料理や酒に対するこだわりが遺憾なく反映された オーブンを使ってピザも焼く メインメニューで「スペアリブ」もやることになった そのレシピやバーのカクテルのメニューのレシピも、瀬山の監修と指導で決められた 店内はウッディーなインテリアでテーブルはパーテーションで仕切られ、そこに観葉植物の鉢が置かれた

高円寺にその当時としてはなかなかお洒落で雰囲気のいい店が出来上がった

今度はどんな名前にしようか・・・修子は考えた 「猫屋敷」という名前はなかなかインパクトがあってサブカルチャーの象徴みたいだったけど、今度の店は一般性があって誰でも気軽に入れる名前にしよう・・・

お知らせ

21日(土)『修子&Midnight Special ライブ』
出演;仲田修子(vo),ジミー矢島(ag),瀬山研二(ds),伊藤悦士(g)、安威俊輔(b)
オープニングアクト;大濱吾朗(g/vo)        《charge\2000》

半年ぶりに仲田修子バンドがライブしますよ 今回からバンド名も元の
「修子&Midnight Special」になり、またメンバーも変更しました
ギタリストの有海治雄が体調不良のため本人の希望でメンバーから抜け、それに代わって新鋭の若手ギタリスト伊藤悦士が正式メンバーとして加わりました 平均年齢が若くなり、ますますパワフルでタイトになった修子バンド

見逃したら損しますよ!

オープニングアクトはこれまた若い天才

ブルースマン 大濱吾朗がつとめます

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

出演するには?

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