仲田修子話 157

ペンギンハウスがオープンしてから5年位経ったあたりから、オレンジスタジオの売り上げが段々下がってきた それまで続いていた「バンドブーム」がテレビで放映されていた「いかすバンド天国(注)」などのブレイクを最後に徐々にしぼんで行き、また他のビジネスでもよくあるように新たに参入してくる同業者が増えてきて、減り始めたお客の奪い合いになってきていた

おまけにスタジオの入っていたテナントビルの家主側から家賃や更新料などに、とんでもない高額の値上げを要求されたので「ここが潮時」と思い、修子はオレンジスタジオを閉めることにした
務めていた従業員の一人が「引き継ぎたい」と言うので、機材なども含めたスタジオ全体を安い譲渡金で譲り、修子らはこの業界から撤退した

オレンジスタジオを閉めたちょうどその頃・・・まるでそれにタイミングを合わせるかのように修子は重度の鬱病にかかってしまった

事業が下向きになったことへの焦燥感もあったのだろうが、むしろこれまで張り詰め続けてきた彼女の神経・・・さまざまなことに対してそれまで彼女が抱えていた責任感からの重圧が、スタジオをやめた時期とたまたま重なったのか・・・「荷降ろし症候群」のように一気に彼女に襲い掛かってきたようだった

修子の症状はかなり深刻で自殺を考えるようにもなり、そのままでは危ないので「日本医科大学病院」の神経科に2ヶ月間入院した 入院中の修子の精神状態はかなり不安定で躁状態になったり・・・そういう症状の時はなかなか眠れなくなることもあった

そんなとき修子は夜中にナースステーションのデスクを借りて文章を書いた その時はとにかくやたら文章が書きたくなっていたのだ
それらのうちの1つは後に「赤い靴」という小説になる(これは以前ペンギンハウスのHPでも紹介された)

退院してからも修子の精神状態は好転せず孤独感などで苦しんでいた ”貧困妄想”にも陥ったが・・・それはすべて妄想ということでは無かった

バブル景気の直前に投機目的で東京の郊外に買った小さな家があったが、バブル崩壊の影響からの地価の大暴落で大損をしてしまった・・・あの時代の洗礼を修子たちも受けてしまったのだ

修子が退院するころ、有海、増田、矢島の3人は集まって相談をした

話し合った結果、このまま今までのように、彼女に負担をかけ続けるのは良くないと彼らは結論を出した 全員がもうすでに30代になっていた 3人は独立してそれぞれ自分たち自身自力で生きて行くことにした 矢島はそれを機に結婚して山梨県八ヶ岳の麓に引っ越した

修子の許には瀬山だけが残った 事業も残ったのはペンギンハウスだけになった その当時はライブの出演希望者もまだかなり多く居たので経営はなんとか成り立っていたが、その後の日本の経済の低調と合わせるように、この業界も淘汰の時代に入っていくのをひしひしと修子は感じていた

そして鬱がひどかったとき修子はあることに気づいていた
「ハコに行ってた時はどんなに苦しくても鬱にはならなかった・・・ もしかすると歌うことだけが自分の鬱を防ぐ行為なのかも知れない」

その思いを胸に修子は再びバンドを組みライブ活動を再開した

自分自身の魂を救済するために・・・

注;「いかすバンド天国」正式名は『三宅裕司のいかすバンド天国』1989~1990年末までTBS系の深夜の時間帯に放送されていた番組名 略して「イカ天」と呼ばれていた 毎回勝ち抜きで出演したバンドからチャンピオンを決めていく形式でチャンピオン大会で5回勝ち抜くと「グランドチャンピオン」となり、そこから出てきた「たま」「BIGIN」などがその後メジャーデビューした

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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