僕の八ヶ岳話 15

その日から僕は何度も何度もくり返しかみさんの説得に時間を費やした そしてついに彼女も渋々それを承知した

さあ、じゃあ今すぐ行こう!・・・というわけにはいかなかった まず資金が要る 引越しと転居するためのさまざまなものが必要だった そのためにはこれからものすごく頑張って資金を貯める必要があった

もうひとつ大きな問題があった それは・・・車 清里に家の周辺にはペンションはあるものの店が一軒も無かった 一番近い・・・それは清里の駅前だが、そこにある小さなスーパーに行くには歩いて(それもずうっと上り坂を)1時間以上かかった。医者もさらに遠い。ちょっとしたものを買いに行くには車でも最低15分以上かかるようなところ、勿論仕事をするためにも車は雑多意必需品だった ところが僕は車はおろか運転免許すら持っていなかった 東京で暮らすなら余程の事がなければ車は必要ない でも八ヶ岳ではそれはなくてはならないものだった そこでまず免許を取らなくてはならない あとは向こうへ行ってから、とりあえず何かの収入を得る手段を持たなければならない・・・などなど諸々の難問が僕らの前に立ちはだかった

そして、まず最初の資金だが・・・これは僕が務めている警備会社での勤務でなんとかすることにした ガードマンの仕事には大きく2つの時間帯がある ひとつは「日勤」と呼ばれ大体は朝の8時から夕方の5時まで もうひとつが「夜勤」でこれは夜の8時から朝の5時までというものだ この両方をやるという「日勤夜勤」という働き方がある

そうすると朝現場に行って夕方そこの勤務が終わると別の現場に移動してそこで朝まで働くということ・・・実質睡眠時間は合わせても4時間ほどになるが稼ぎにはなる 当時警備会社に初速していた隊員にもそういった過酷な勤務をやってるものがけっこう居た その当時僕もまだ若かったので体力的にはなんとかなるか・・・ということでそういう勤務に進んで赴いた これは当時としてはかなりの収入になった 今の相場はいくらぐらいかは良く知らないが、当時(30年以上前)で日勤で8000円、夜勤で10000円になり、残業がつくと1時間1000円になった あともうひとつ・・・こRては一番楽な(体力的にだが)仕事は「司令室勤務」を24時間つまりまったく無休でやるということ しかもそれを3~4日とか、ひどい時には1週間続けて・・・というようなこともやった すると家には当然帰れない 風呂にも行けない 着の身着のまま・・・というか警備員の制服のまま深夜の2~3時くらいに、とりあえず仕事がひと段落したら司令室の床に毛布を敷いてそこで朝まで仮眠を取る・・・そんなことまでやっていたのだ

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

出演するには?

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする