さて、その当時の日本の社会状況と音楽の流れをちょっと話しておこう
「70年安保」が結局どれだけ多くの民衆の声が大きくとも何事もなかったように国会であっさり通り千葉県成田に国際空港の工事がどんどん執行されてゆき「全学連」からどんどん分派活動を進めていった学生活動家たちのうち最も過激な活動していた「連合赤軍」の「あさま山荘事件」などをきっかけに学生運動もすっかり沈静化・・・あるいはさらに”地下に”潜り・・・そして「全共闘世代」と呼ばれていた当時の若者たちは今度は「しらけ世代」と呼ばれることになる
音楽の中にも色々な変化がおきていた
それまでそういった活動的な若者たちに支持されていた「岡林信康」「高石友也」などのシンボル的シンガーたちが次々に転向あるいは沈黙してゆき(岡林信康は「俺らいち抜けた」という曲を発表して田舎に篭ってしまった) そのあとを埋めるように高田渡などの「生活派」のシンガーたちが頭角を現しはじめる
その高田渡を尋ねて東京から京都までヒッチハイクで辿り着いた青年・・・シバはその年の夏に開かれた「中津川フォークジャンボリー」に渡に引っ張り出されて登場する
そのシバがファーストアルバムを出したレーベル「URC」 そこからは高田渡の「汽車が田舎を通るそのとき」とか遠藤賢司の「それで満足できるかな」などが出ていたが、やはりシバの「青い空の日」を聴いたときは烈しくインパクトを受けた 当時日本にまだまだブルースが定着していなかった当時、関西では「West Road Blues Band」などが始動していたが・・・ギターの弾き語りでしかも日本語のオリジナルのブルースを歌うシンガーなんて存在していなかった(あるいは知らなかった)
その黄色と黒のジャケット(彼自身のイラストだ)はあきらかに当時の米国「Folkways」レーベルを意識していたが、そのアルバムを聴いたとき「こんなに本格的で泥臭いオリジナルブルースを歌うシンガーがいたなんて!」と度肝を抜かれたものだ
そしてその後も彼のことはすごく意識するようになっていた そのシバが吉祥寺の”ある場所”によく居る・・・その話を妹MEGから聞いたときは思わずトリ肌が立ちそうになった
ある場所・・・そこは僕の母が「どうしようもない不良のたまり場」と称した店・・・「ぐゎらん堂」
そここそがこの後僕の人生の方向を大きく決めてしまった場所だったのだ
そしてある日MEGがこう言った 「シバが兄貴に会いたがってるけど・・・どうする?」
続く
高円寺ライブハウス ペンギンハウス