僕の吉祥寺話 11

さて、ここでその当時の「ぐゎらん堂」のことを説明しておこう

でも僕が細かいことをああだこうだ言うよりもこの店の当のオーナーだった村瀬春樹さんが素晴らしい文章を書かれているのでまずそれをご覧になっていただこう→「音盤は回る」

とにかくそこは決して広くもないし素朴・・・と言うよりは「学祭の模擬店」のような荒っぽいつくりの店だったが、そこに充満していた熱気とエネルギーはそれは尋常じゃないものだった・・・店の固い木のベンチに薄いマットを敷いただけの座席にどれだけ座って色々な連中と色々な話をしたか・・・若かったとはいえ膨大な時間の浪費・・・そのほとんどは「白水」(サントリーホワイトの水割り)や「ブラン」(電気ブラン)などで朦朧とした頭で過ごした時間なのだが・・・大いなる”無駄”がその後の色々なものに出会ったときの僕の思考を生み出す「胎盤」になってることは否めない

そしてそこにやってくる大勢のとてつもなく個性というより「独自の世界を持つ」人々・・・それはミュージシャンだけでなく「絵描き」「詩人」「ダンサー」「役者」「文学者」「漫画家」「ヒッピー」「出版業者」」「不良少年少女」「プータロー」などなど・・・との交流・・・毎日がなんだか「他流試合」のような「ストリートファイト」のような日々がまだ”ガキ”だった僕にも容赦なく襲いかかってきていた


そして当時の「ぐゎらん堂」と吉祥寺にはそれは最初は」シバそして主に高田渡の影響だったのだろうけど実に多くのミュージシャンたちが集まってきていた「シバ」「友部正人」「中川五郎」「中川イサト」「加川良」「村上律」「松田幸一」「渡辺勝」「竹田裕美子」「今井忍」のちに「佐久間順平」「大江田誠」「林ヒロシ」「小林清」「大庭珍太」「佐藤GWAN博」「朝比奈免人」・・・まだまだ書ききれないが

だから深夜のぐゎらん堂ではそういう連中の「セッション」・・・と言えば聞こえがいいが・・・要するに酔っ払って朝までわけのわからない音を延々と弾き続けるという・・・

春樹さん(右写真、ハンチングの人)も書いているがお店にとっては実に困った連中の困った所業が夜毎繰り広げられていたわけで・・・でもそういった「遊び」みたいなものから一つの動きが発生していった

それが伝説のユニット「武蔵野タンポポ団」の誕生へとつながるのだが・・・

続く

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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