「武蔵野タンポポ団に入らないか」 という誘いは僕にとって本当に「晴天の霹靂」というか大きな事件だった
とにかく当時のタンポポ団といえばしょっちゅうあちこちからお声が掛かって日本中でコンサートやライブに出演しまくってたからだ さすがに即答はできなかった それは当時まだまだ駆け出しの”ひよっこシンガー”だった僕にはあまりにも”でかい”話だった
「ちょっと考えさせてください」確かそう言って2~3日の猶予をもらったんだと思う
僕が迷う理由は2つあった ひとつはとにかく「タンポポ団」という大看板の一員として今の僕のキャリアと実力で通用するのか もうひとつは当時僕はやっとの思いで浪人して大学に入ったばかり・・・僕の通ってた学校はけっこうレポ-トとか実習とかが多くて休むことが難しい 当時武蔵野タンポポ団はというと週に3~4日は全国のあちこちへ「ツアー」とかでしょっちゅう出かけていた とても学生が「片手間」でこなせるようなスケジュールではなかったのだ 苦労をかけた両親へのことを思うと・・・というのは言い訳でまあ、早い話が”ビビった”わけだね(笑)
「もうしわけありませんが・・・」その数日後僕はワダちゃんとシバにこう言った
「僕は大学があるんでやっぱりタンポポ団のメンバーには入れません」
「そうか・・・」
というわけで僕のタンポポ団入団という話はお流れになった そのかわりに当時ちょうど高田渡のアルバムで1曲だけ「あしたはきっと」という歌を歌って注目されていたシンガー「いとうたかお」が名古屋から呼び出されてメンバーとなった
ところがそのすぐあとで高田渡が「もうやめたい」と言い出してその年末一杯で「武蔵野タンポポ団」は解散してしまったのだ(その話は1月1日の僕の日記「大晦日といえば」で触れているよ)
今思えばあのときタンポポ団に入っていればその後の僕はちょっとばかり「有名人」になってたのかな(笑) ちょっと勿体無かったかな・・・という思いもあったけど僕は後悔はしていない あのとき”未熟”なままでそういう場所に行かなくて行かなくてよかったと思う これは負け惜しみでもなんでもない
ちなみにその後の話・・・せっかくタンポポ団に呼ばれて名古屋から東京に出てきたいとうたかお(通称ペケ)はそのまま吉祥寺に住み着いたが・・・そういういきさつがあったからかどうかは知らないが、その後の彼はよく酒を飲んでは荒れていた 一緒に飲み屋に居て彼が見ず知らずの相手とケンカするのを止める・・・そういう経験を僕は何度かしていた 今はまた名古屋に戻って活動をつづけている彼・・・相変わらず神経質だが(笑)本当に素晴らしいシンガーとして今でも活躍している ちなみに「これ」は2005年に高田渡が亡くなったあと武蔵小金井公会堂で開かれた「追悼コンサート」のときのもの 「あしたはきっと」を歌ういとうたかお 僕はなぎらけんいちやシバや中川イサト、斉藤哲夫、坂崎幸之助らと一緒に一番右でドブロを弾いてるよ 映ってないけどね(笑)
タンポポ団を「退団」してもっと「メジャー」なほうへ移った若林純夫はその翌年の「春一番コンサート」で「雪の月光写真師」という曲をソロで歌い、それがライブ盤レコードに残っている 実に繊細でいい曲だ それにコウタロウと「少年探偵団」というユニットもやってたなあ
しかし、その後間もなく音楽をすっかりやめてしまった彼は故郷の山口に戻ったという ずいぶん久しぶりに再会したシバが「あんなにお洒落でカッコよかったウディーがすっかり田舎のおやじになってたよ・・・悲しかったなあ」と言ってたが、それからわずか2,3年後の2006年の5月に病気で亡くなっている
彼が訳詞した「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」の最後はこういう歌詞だ
「そして一緒に歩こうよ/吉祥寺の街を・・・」
彼が吉祥寺の街を歩くことは・・・もうない
続く