74年から75年あたり・・・僕らは相変わらず毎日をうだうだして過ごし、「ボガ」と「いせや」や「太郎」そして「ぐゎらん堂」行ったり来たりするをくりかえしていた
もう僕はすっかり大学には足を運ばなくなっていた 行ってもその西新宿にあった校舎をすり抜けて同じ西口に固まってあった「中古レコード屋」を冷やかし、気に入ったレコードがあると教科書を古本屋に売り飛ばして金を作りレコードを買って残った金で一杯やるという、本当に当時の(今もか)若者がたどる「転落の道」をずるずると下っていた
恋もその年頃にはよくあるように普通にしてたが、付き合ってはまた別れる・・・そういう日々を送っていた
そんな頃、シバと僕それにもう一人・・・「スダ」という僕らよりだいぶ若い男・・・よくぐゎらん堂に来ていた友人だったが、彼を加えてユニットを組むことになった
その名前は3人で話し合った結果「ザ・キャンディーマン」にした
キャンディーマンというのは「ミシシッピ・ジョン・ハート」の歌にもあったのだが黒人のスラングでいわゆる”いやらしい”意味を持っていた
パートはシバがボーカルにギター、クラシネットなど 僕がギターにボーカルにウォッシュボード(アメリカの洗濯板のこと これを擦ってパーカッションのような使い方をする) スダがウォッシュタブベース・・・これもアメリカの洗濯用桶のこと これに弦を張ってベースの代わりにした
こんな編成で3人が目指したのは当然「ジャグバンドスタイル」だった
そういうスタイルでやっていたといえばもちろん「武蔵野たんぽぽ団」があったわけだが、それが解散してから約3年・・・そのオリジナルメンバーだったシバがまたこういうユニットをなぜ組む気になったのか・・・それにはこういう事情もあったんじゃないかと思う
当時、ぐゎらん堂には「林亭」「林ヒロシ」などいわゆる「ファミリー」と言っても良いような高田渡を囲むミュージシャンの集団のようなものが出来上がりつつあった
やがて林亭を休止した佐久間順平、そこにその当時は4弦バンジョーを弾いていた小林清、その小林が連れて来た大柄のベーシスト大庭珍太・・・彼等が加わってやがて「高田渡&ヒルトップストリングバンド」というユニットに成長しつつあった
特に「渡派」「シバ派」というのがあったのではないのだけど、なんとなく「カントリー系」と「ブルース系」というような棲み分けが出来上がっていたのかも知れないが、シバとしてはちょっと渡に対する対抗心みたいなものもあったんじゃないかなあ・・・まあ本人に確かめればいい話だけどね
とにかくあちらはかなり腕利きの若手を集めての「秀才クラス」、こちらは僕もスダも含めてへっぽこを集めて「落第生クラス」。。。てな感じ(笑)
でも、やる気だけは充分!「打倒ヒルトップ・・・」というわけじゃないけど、ちょうど向こうもほぼ同時期に結成され日々サウンド作りを進めてるような状態だったので、いやでも意識してしまう
その「やる気」は夏場に八王子にあったシバの実家に一週間合宿しての練習・・・というようなハイテンション・・・朝はランニングから・・・と、そこまではいかなかったが(笑)朝から晩まで練習の日々が続いた
そして、ついに「キャンディーマン」に公にデビューの日が来た・・・それはちょっとした大きなイベントだった
続く
高円寺ライブハウス ペンギンハウス