僕の吉祥寺話 59

何だか「吉祥寺話」がいつの間にか「高田渡話」になってしまってるが、あと一話だけ付き合ってほしい ふと気がついたんだが、あの当時昔の音楽仲間のうちで亡くなる直前の彼の日常の姿を一番見てたのは僕だったんじゃないかということだ
僕が吉祥寺でからまつ亭をやってた頃、午後の3時位に吉祥寺の街に出かけ例の「いせや」の前MINOLTA DIGITAL CAMERAを通りかかると大抵彼はそこにいた
バス通りに面した立ち飲みカウンター席の一番奥・・・そこが彼の指定席だった

「わたるちゃん!」僕がそう声をかけると、はっとしたような表情からやがて妙にバツの悪そうな顔になる・・・手には何やら薄茶色の液体の入ったグラス・・・そして僕が何も言わないのにこんな言い訳をした
「あ、いや、これはお酒じゃないの ウーロン茶を飲んでるんだ」 もちろんそんなわけない(笑)

ただ、彼が何で僕にそんな言い訳をするのか・・・それには理由があった
僕の店からまつ亭にも彼はちょくちょく来ていた でもそれは蕎麦をたにさくら食べるためではなく呑むため
そこで出していた八ヶ岳の地酒「谷桜」を彼は気に入っていた それで店に来ては(たいていは奥さんと一緒だった 彼女は僕の蕎麦を本当に気に入ってくれていた)酒を頼む

谷桜冷やで・・・もちろん徳利ではなくグラス・・・それを受け取るとまず最初の一杯はくう~っと一気に空ける 「もう一杯!」 二杯目を受け取ると今度はゆっくりと惜しむように飲む

しかし、ここまで 「3杯目を」・・・という注文を僕は頑として受けなかった

彼が酒を飲んではいけない身体なのは僕もようくわかっていた 商売だから黙って出せばいいのだが、友人としてそれは断固として拒否していた

「うるさい奴だな・・・」きっとそう思われてたんだろう(笑)

でも僕は彼の「慢性的自殺」に手を貸す気はまったくなかった それは「いせや」とかほかの飲み屋にお任せだ!

そんなある日、彼が突然意外なことを言った八ヶ岳のログハウス

「矢島くん、八ヶ岳に土地買ってログハウス建てたらどれくらいの予算でできるの?」

僕はそれこそ耳を疑った だって、これだけ街の中で生きてきたそれも飲んだくれのシンガーとそれはどうしても結びつかなかったからだ 僕は彼の真意を正した すると

「いや、漣くんとその子供たちに将来暮らせる家を建ててやりたいと思ってさ、で僕も将来はそちらで暮らそうかと思ってる」

漣くんとはもちろん彼の息子で今もミュージシャンとして活躍している高田漣のことだ・・・それにしわたるとれんても・・・ 僕は彼に問いかけた

「いい?渡ちゃん 八ヶ岳にはそんな近所に飲み屋も酒屋もないんだよ」すると

「いいんだ、その時になったら僕は酒やめる!」 真顔で彼はそう答えた

じゃあ、八ヶ岳にはログハウスを建てる大工の友人もいるしそのうちいつか機会をみつけて一度下見がてら八ヶ岳まで一緒に行こうか・・・そんな約束を交わした だが・・・それは実現することはなかった

映画「タカダワタル的」が発表されてから、彼の活動は妙に忙しくなった あの「いせや」にも顔を見せない・・・そんな日が多くなっていた

そして、僕が吉祥寺の店をたたんで八ヶ岳に戻ってすぐ・・・4月3日だった 元「からまつ楽団」のベースの牧裕から電話がかかってきた 「渡さんが北海道で倒れました かなり危険な状態らしいです」 ツアー先の北海道、風邪で熱が40度もあるのに強行した白糠町でのコンサートのあと意識がなくなりそのまま地元の病院へ緊急入院したということだった

それから約2週間後の4月16日・・・ちょうど荻窪のライブハウスで演奏するために東京に来ていた僕に牧さんから電話がかかった「渡さんダメでした 今夜北海道から自宅に遺体が帰ってくるそうです」

ライブのあと、僕は三鷹へ向かいそして彼の家を訪れたきしゃ

そこには大勢の友人に取り囲まれた彼が眠っていた

その顔は妙にほっとしたような表情だった

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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