僕の吉祥寺話 49

さて、しばらくお休みしていた「吉祥寺話」 段々と終盤に近付いてきたので、ここからは当時の僕の音楽仲間たち一人一人について書いてみようと思う 第一回は「いとうたかお」いとう

いとうたかお、周りからは愛称「ペケ」で呼ばれてるので僕もそう呼ばせてもらう
彼との出会いは前の吉祥寺話にも書いたとおり、僕の代わりに「武蔵野たんぽぽ団」に入るために名古屋から吉祥寺に呼ばれて来たと言うのは話したよね そのきっかけになったのは彼が高田渡のアルバム「系図」に1曲だけ吹き込んだ「明日はきっと」という曲が評判を呼んだからで、のちにキングベルウッドからアルバムも出すことになる
その後、たんぽぽ団が分解して東京に残った彼が結構荒れてたという話も僕はしたが、元々ペケは喧嘩早いほうだった と言うより彼の潔癖な性格がそうさせてたみたいで、とにかく曲がったことが大嫌い 約束や人のことをすごく大事にする、そういう男だ
あれからもう40年以上経つけど不思議なほど外見も当時とほとんど変わらないたかお
吉祥寺そして東京を離れて暮らしていた僕、そして名古屋に戻ったペケ・・・ずうっと会って無かった彼とある日意外な場所で再会した

当時、全く音楽活動はしてなかった僕は八ヶ岳でアウトドア三昧の毎日・・・その中でも特に渓流釣フィッシュりにハマっていてやがてヤマメやイワナなどの姿を木彫で作るフィッシュカービングを始め、一時期はそれを副業にしていたのだ(右の写真は他人の作品だが、ほぼこういうのを作ってたのだ)

そんなある日、長良川に河口堰が作られることに反対する大会(この河に生息するサツキマスの遡上が遮られるなどの意見があった)が主にアウトドア関係の人達で桑名市で開かれると言うことを聞き、僕も参加したのだ。主な目的は 自分の作品を売るためという非常に不純な動機だったけど(笑) 思惑通り作品は面白いほど売れて、気をよくした僕は早々に出店をたたみ、会場のメインステー ジで開かれてたライブを見に行った

すると、司会者に紹介されてギターを抱えて現れた・・・それがペケだったのだ!ペケ
演奏を終えてステージから降りた彼に声をかけるとものすごく驚いた表情でこう言った
「矢島くん!何やってんの〜?!」
「いや、実は・・・」
彼に今の自分のことを説明しながら僕はちょっと悲しくなっていた ずうっと現役で歌い続けてる彼が眩しく見えたのだ
でも音楽はもうやらない・・・当時の僕は頑なにそう決めていたのだ 結局お互いの連絡先を交換するでもなくペケと僕は分かれた

その後八ヶ岳で僕は再び音楽活動を再開するまで3~4年、そして「からまつ亭」をやるために東京に出て再び活発なライブ活動を始めた頃、浜松のトモジさんという人の企画で僕が佐久間順平とジョイントのライブをやるために浜松に行ったとき、久しぶりにペケとまた再会した

彼と握手をした僕の手にはそのときは彫刻刀ではなくギターが握られていたのは言うまでもない

彼とはその後何度か一緒になることがあったが、一番印象が深かったのはこれ⇒2005年高田渡追悼コンサート いとうたかおの「明日はきっと」 参加メンバーがすごい! 中川イサト、シバ、なぎらけんいち、斉藤哲夫、アルフィーの坂崎・・・最後のほうで僕のドブロが聴けますぞ

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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