この「僕の吉祥寺話」がスタートしたのが今年の1月2日
まあ最初はお正月休みでホームページを見にいらっしゃる方に何の読み物もないのも淋しいかと・・・そんな気軽な思いでスタートしました
せいぜい30話くらいで終わる・・・当初はそう思ってたのです
ところが、書きはじめて見ると色々なことが思い出されて「そうだ、こんなこともあった」「あのことも書こう・・・」などと話がどんどん雪だるまのようにふくらんでいきました
とくに僕が「ぐゎらん堂」に行き始めてミュージシャンとしての体験とそこで出会った多くの人たちのことを書き始めたらそれがさらにふくらんでいきました
あの当時、まだ20代はじめだった僕にその頃の経験は本当に目まぐるしく中身が濃くて・・・そしてそれがちょうど「吉祥寺」という街が都下のそんなにぱっとしない駅前の街から「ビッグシティー」になってくプロセスとも重なっていました
色々なものが変化すると同時に古くてみすぼらしいものはどんどん打ち捨てられるか忘れ去られてゆく・・・そんな光景と僕が音楽の中で見ていた「幻影」のようなものが奇妙なカクテルのようなあと味を残して・・・そして気がつくとまるで何も無かったかのような景色だけになっていました
あの当時「吉祥寺には何かある」 そう思って遠くから家出をしてまでやってきた多くの若者もやがてそうではなくて「吉祥寺には何かをしている人がいる」ということだったことに気がつきます
「そうか、吉祥寺でなくてもいいんだ」 やがてみんなそれぞれの場所へと散ってゆきました
だからあの「吉祥寺」は今でもあそこで心に何かを刻み付けた人の中にだけは存在しているんだと思います
話の終り近くで僕が「高田渡」について多くのページ数を使ったのは、書きながら「そうか、あの最後の時期の彼の日常の姿を一番見ていた昔の仲間は僕だったかもしれない」と思ったからです
彼は生前そして亡くなってからでも「フォークの聖人」みたいな書かれかたをあちこちでされていました いわゆる「奇行」や「面白話」などともセットになって彼を伝説化するような傾向が多く見られます
でも、僕はそれは間違ってると思います
彼は「日本のフォーク」という世界に貢献もたくさんしたけどダメにした張本人でもあるのです
それは僕が今うんと若い世代のミュージシャンたちが本当に恵まれない環境の中でそれでも諦めずに一生懸命頑張ってる姿を見ていてつくづく思うのです
彼はよく僕の「からまつ亭」に来ては色々な話や愚痴や弱音を僕にこぼしてました 昔からそうだったのですが僕は彼に対して一切遠慮しませんでした はっきり言いたいことを言う・・・それが僕の彼に対する正しい接し方だと思ったからです
ある方の書かれてたことで僕が知らなかったことがありました 映画「タカダワタル的」が公開されて彼が忙しくなってあまり吉祥寺にも姿を見せなかった・・・と書きましたが、実際は体調を崩していて密かに一ヶ月ほど入院をしていたそうです
だから彼の最後の旅になった北海道ツアーは最初からムリだったんだと思います
わずか56歳で亡くなった彼を「音楽に殉じた」と讃える向きもあるようですが、僕はそう思いません
渡ちゃん、あなたはもっと生きているべきだった だって今こそあなたが「自衛隊に入ろう」を歌うべき時代だから・・・違うかな
結局吉祥寺の街は昔も今も本質は変わりません そこで文化を育てようとがんばってた「バウスシアター」は地主のお寺の法外な「更新料」請求に負けて消えていきました
今では吉祥寺の街はつまらない店ばかりです 「文化を育てよう」なんて本気で思ってる人たちはもうとっくに吉祥寺と言う街に愛想をつかしています 地主家主たちは土地代や家賃のことにしか興味がありません
あの当時はもちろん知る由もなかったのですが、小学生の僕が「引揚者寮」に住んでた同級生のヨネモトくん(吉祥寺話第一話に出てきます)と近所の茶畑で遊んでた頃・・・紺色の詰襟の制服を着てすぐ近くの成蹊学園の小学校に通ってたのがあの阿倍晋三くんでした(写真は本人と関係ありません)
あの頃から吉祥寺は今も変わらないのです
さて、吉祥寺話は終わりましたがその後は何があったのか
ここからまたひとつのドラマがあるのです
それについてはしばらく時間を置いてから書きはじめようと思います お楽しみに
高円寺ライブハウス ペンギンハウス