僕らの北沢話  1

さて、このお話は「僕の吉祥寺話」の最終回からつながっている ご存知ない方はお手間ですがそこから読んでみてください

吉祥寺から井之頭線に乗って「池の上」という下北沢の次の駅で下車 駅からまっすぐ伸びる道を0120197~8分ほど歩くと今度は小田急線の踏切が見える 現在は小田急線が地下に移ってしまったのでただののっぺりとした道路だが、確かにここに踏切があったはずだ

その手前を右に入り少し進むと左手に大きな空き地があった 実際は駐車場だったみたいだが、砂利が敷いてあって雑草が生えたそこには車もほとんど停まってなくてただの空き地にしか見えなかった その頃、そのあたりはこれが東京の中心に近いとはとても思えないようなのどかな光景だった 家もなんだかまばらで家々の向こうに東北沢の駅が妙にローカルななんだかわびしい佇まいで見えていた その東北沢駅を背にするように立っていた一軒のアパート 木造モルタルの2階建てで一階二階それぞれに2軒ずつの部屋があり二階の部屋にはそれぞれ個別の外階段が付けられていた

その南側の二階がこれから僕がお世話になる「修子ハウス」だった 当時はもちろんそんな呼び方はされてなかったが 彼女がここを拠点に選んだのは当時の彼女の仕事に深いつながりがあった

その当時、銀座や赤坂、六本木などの店で弾き語りの仕事をしていた彼女にとって、この場所はとても便利だったからだ 渋谷にも新宿にもすぐ出られる おまけに住んでいたところから六本木までの直通のバスも出ていたのだ

アパートは決して広くはなかった 階段を上がりドアを開けるとそこがダイニングキッチン その奥流し台にたしか八畳ほどの部屋が2つ その奥の一室に二段ベッドが2つあり隣の部屋はがらんとしたつくりでそこが居間であり客人の寝場所であり時にはミーティングルームになったりパーティールームになったりした(写真はイメージです)

この部屋にはしょっちゅう誰かしらが来ては泊まっていくということが日常だった この場所がどれだけオープンだったかについては色々なエピソードがあるが、たとえばある日修子が仕事を終えて帰宅すると自分のまったく知らない人物が部屋で寝ていたなんてこともしょっちゅうだったらしい

つまり友達がその友達を連れてきて泊り込んでゆく・・・なんてことが日常的だった場所

そう・・・70年代の後半・・・そこは一種の「コミューンハウス」になっていたのだ

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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