僕らの北沢話  2

その東北沢のアパート・・・もう何という名前だったかも忘れてしまったが、そこに住んでいた皆の日常はと言うと

修子はライブ活動をしながらそれ以外の日はまだクラブなどで歌うシンガーの仕事を続けていた シュウコ当時その職業のことを業界では「ハコ」と呼んでいた 高級クラブなどでステージにあがりギターやピアノなどの弾き語りでその店にあう雰囲気のスタンダードな曲などを演奏し、またリクエストがあればそれに応えさらにお客が歌うときはその伴奏をつとめる・・・だから曲のレパートリーの数はかなりなものを要求されるし、勿論「上手く」なければ職業として成り立たない つねに競争の世界の中でさまざまな要求に応じさらに「ほかの演奏者とは違う」ものを提供し続けなければならない 時間厳守、遅刻厳禁 当時でもかなりの稼ぎにになった仕事だがそのかわり大変な環境だったのだ

この過酷でつねにプレッシャーと闘わなければならない世界で何年間も第一線で活動してきたことが彼女に与えたものがあのぐゎらん堂で僕が「すごい!」と唸った彼女のパフォーマンスの基礎になってるのは間違いない もちろんほかのものも ものすごく有るのだが・・・

そして彼女のパートナー 亜郎はその当時はあるコンピューター関係の会社で働いていたキーパンチ

今の彼を知る人たちはきっと驚くだろうけど、なんと情報メディアの最前線で働くパワーエリートだったのだ!

修子バンドのメンバー 有海と増田はライブのないときは基本的にはオフ 両者ともたまにどこかのクラブなどへ「ハコ」の仕事に行くこともあった

そして僕はといえば・・・何もしてなかった(笑)

とくに修子ハウスに居候するようになって最初の1~2週間はただ一日その家にいてボ~ッとしてギターなんか弾いていた とにかくなんだか異様に落ち着いて気持ちが良かったのを覚えてる

僕はまるで定年退職した人間のようにそこでの時間を無為に過ごしていたぎたあ

それにはさすがの修子も黙っているわけにはいかない

「あなたも何かやってくれない?」・・・ある日そういわれた というわけでその後僕はそのアパートで掃除や洗濯そして調理など家事全般を受け持つようになった 僕が後に料理人として働くことになるきっかけはここでの経験がベースになっている

そこでの暮らしはなかなか刺激的だった もちろん毎日は日常なのだが、時としてとんでもないことがあったのだ

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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