仲田修子;ダウンタウンブルース  1

編集者より
これからお届けするのは仲田修子のオリジナル小説「ダウンタウンブルース」です

これは昨年の11月の初めから約一ヶ月にわたって連載されていたものです

この小説は彼女が20代の頃実際に経験したことを元に書かれたほぼ実話のお話です

色々なものが混沌としてまだパワーがみなぎっていた当時の日本の東京の片隅で繰り広げられていたドラマ

今回ご好評だったこの作品を再々上演させていただきます それでは

「ダウンタウンブルース」

1970年代の初め頃、まだカラオケなんて全然無かった時代の話。
私は駆け出しの「弾き語り」だった。
プロになってから丸二年たっていた。その頃の私はまだそれ専門のプロダクションに入っていなかったから、「仕事場」の選り好みなどしていられなかった、「錦糸町」のナイトクラブの仕事が回っ錦糸町1てきた。弾き語りになって以来、初めてのホステスのいる店だった。
そして、そこが、忘れられない思い出の場所になるとは、考えてもいなかった。

二十二才の頃、ふとしたきっかけで友人からギターを貰い、コード(和音)の弾き方を四つ教えてもらった、そのコードだけで弾ける曲も四、五曲教えてもらった。
一ケ月後、東中野にあるスナックで、覚えたての曲を歌ってみた。そしたらその店の若いオーナーが出てきて、「毎週土曜日、ここへ来て歌ってくれないか?一晩に二千円あげる」と言った。
私は心底びっくりした、歌を唱ってお金が貰える…そんな事はそれまで想像力の外だった。
私はその頃東京は北区の王子、栄町という所に、母と弟と三人で、小さなパン屋の四畳半に暮していた。

何もかも父親が死んでしまったせいだった。
中学一年の時に父が死に、住んでいた社宅を追い出され、僅かな貯金も底をつき、私は高校へ行くどころか中卒ですぐ働かなければならないハメになった、職安へ行くと必ず工場を紹介された。中卒の私は、せめて一回でもいいからデスクワークというのをやってみたかった。
しかし職安の人にいくらそう言ってもダメだった。
工場の仕事はどれもこれも辛く、それにつまらなかった…流れるベルトコンベアの前に座って実働八時間、神経と体がクタクタになる。
それだけではなく、一番辛く恐ろしかったのは、「もしかすると自分は一生涯、このコンベアの前でコンベアー一日中同じ事を繰り返し、そしてただ死んでいくのだろうか?」という考えだった。
一年に一回ぐらいごとに勤める工場を変えてみた。どこも似たりよったり、同じことだった。
いつ頃かは忘れたが、工場で知り合った中年の女の人に、飲み屋、というのに連れていかれた事があった。今思えば、ああいうのを場末のスナック、とでもいうのだろう、何だかうす暗くて、やたらに真赤な色が、カーテンとかソファとかに使われていた。
「君、いい脚してるね」
居合せたサラリーマン風の男にそう言われた。
「アンタ、ウチで働きなさいよ!」
その店の経営者らしい中年の女の人がそう言った。私を連れていった女の人も同じ事を言った。
なぜかその時、ひどくムカついた。それに何だか恐ろしかった、「こんな所で働くくらいなら、いさぎよく、コンベアの前で死んでやる」 そう思った。

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする