仲田修子;ダウンタウンブルース  2

私は中学の時、わりと成績が良かった。
ある日、友達の一人から、中学の時の同級生だった女の子が、アメリカのどこかの大学に留学したというのを聞いた。儲かっている寺の娘で、成績は中の下位のコだった。
私はその晩酒屋に行き、安い焼酎とタバコを買った。焼酎はびっくりする程まずく、仕方ないので水で薄めて、砂糖を入れて、それでも飲んだ。だんだん気持ちが悪くなってきて、おまけに目まいまでしてきた。
「おまえ、大丈夫なの?」
母が恐る恐る訊ねた。彼女は掃除婦のパートをやっていた。一才半年下の弟は何も言わず、ただ不安げに私を見つめていた。

東中野のそのスナックで毎週土曜日に歌い始めた頃、私は家のすぐ近所の化粧品工場で働いていた。王子にある有名なメーカーの工場だった。
仕事は単純で、粉状のおしろいを金属の枠に入れて、いわゆるファンデーション、という状態にプレスして固める。それが私に振り当てられた作業だった。そしてその作業は、今までの工場勤めの中でもダントツの苦しさだった。金属の枠はなぜか異様に厚ぼったく重く、それを右下の床の上にある箱から拾い上げ、プレスして、その後すばやく左下の床の箱に入れなければならない…その間も巨きな丸いプレス機は情容赦なく回り続ける。それを昼休みを除いて一日八時間、週六日、毎日毎日続けなければならない。私は苦しさのあまり時々文字通り呻いた。「人間にこんな事をさせていいんだろうか?」とも思った。それから、古代のガレー船の奴隷の人達とか、「女工哀史」カガレーンケイの本とか、江戸時代の佐渡金山の水替人足の本とか、とにかくそういうヒサンな人達の事を書いた本の内容を次から次へと思い浮かべ、「今の私の方が全然マシで楽なんだ」と自分に言い聞かせるのだった。

スナックで土曜日毎に歌い始めると、すぐにお客達が言い出した。
「こんな所で歌ってないで、銀座とか赤坂とか六本木サドで、弾き語り、というのをやればすごく稼げるよ!」

そうか、そんな商売があるのか?できることならそれになりたい。私は思った。実際、その店で土曜日に二千円づつもらっても、ほとんどその店での食事代と飲み代で消えてしまい、手元にはほんの僅かしか残らないのだった。工場での給料は一ケ月三万二、三千円。あれだけ過酷な労働をさせながら、一ケ月、たったそれだけだった。それに母が掃除婦をして六本木稼いでくる一万八千円。弟はバイトをしながら夜間大学に通っていた。
パン屋の四畳半は昼でも電気を付けっ放しにしなければならない程、陽が全く入らない暗い部屋で、そのせいか、家賃は月五千円だった、そんな生活の中でも私達一家は貯金、むろんごく僅かだったけれど、貯金をしていた。
弾き語り、とかいうのになりたい。いや何が何でもなってやる…私は決心した。

 高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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