僕らの北沢話  その後

結局高円寺「猫屋敷」は1978年からたしか85年まで営業していたと思う 後半はかなり常連客もついて活気のある店になっていた 売り上げもオープン当初には想像できなかったほどの額になってきた 亜郎はもう「ネコマス」として高円寺ではちょっと知られた有名人になっていたScan0029

81年、浜松での過酷な営業バンドの仕事の成果でストックできた資金を元手に大久保に音楽用練習スタジオをオープンすることになった このときも内装や防音工事はほぼすべて自分達の手で行い、僕も防音用のグラスウールで手がちくちくするのを耐えながら作業を手伝ったりした こうしてまたもハードな作業をして音楽練習スタジオ「大久保スタジオ」を開店した

これがちょうど当時起き始めてたバンドブームにうまくシンクロし利用者が多く順調に売り上げ・・・

翌年には大塚にさらに拡張した2フロアーの「オレンジスタジオ」を開店、北沢のアパートに寄り集まっていたほぼ一文無しの僕らのグループはその頃には「株式会社ロウソサエティ企画室」となった

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そして1984年にはついに現在の場所に「ペンギンハウス」を開店したのだ(右はオープン当日に行われたライブ)

こうして仲田修子がずうっと持ち続けていた「自分達で自分達の活動する場所を作る」という構想がすごく長い時間と悪戦苦闘の末、ようやく手の届くところに来たのだ

つい最近、修子バンドのペンギンハウスライブのあった数日後修子とお茶を飲みながら会話してたと083き彼女がぽつりと言ったこと

「今まで色々苦労したけど・・・私は今が一番幸せだよ」

この言葉を皆さんにお伝えしてこのお話の最後にしたいと思います

どうもありがとうございました

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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