ギターを弾こう   50

さて、最初はニューオリンズという狭い地域だけで楽しまれていたジャズが各地に広まり一般にも知られるようになったのはっもっぱらこの音楽が売春宿や酒場などで客が踊るときのバックとしてニーズがあったからだ 当時初期のころのジャズそれは「ニューオリンズ・ジャズ」と呼ばれたが(一般には「ディキシーランド・ジャズ」と言われてるが厳密にはそれは白人が黒人のジャズを真似てやっていたもののことだった)そのリズムパターンの基本はシンプルな4/4拍子だった32a410f3

そしてそれに合わせて踊られた当時はやりのダンス・・・それは「チャールストン」と呼ばれていた100
見てもらってわかるだろうか 黒人のリズムを取り入れながらも身体の動きは基本的には前に見てもらった「アパラチアンダンス」とかなり近い→「チャールストン」

でも、当時はこれでもかなり下品で退廃的なダンスというのが「良識ある」一般人の考えだったようで映像の最初のほうでの客席のお父さんの反応がそれを表わしている

後に「スィングジャズ」というスタイルに変化してゆくにつれてリズムパターンが変化してゆく・・・それは譜面で表わすとこういった感じt02200073_0669022212978295770
いわゆる「符点付き4分音符」と呼ばれるそれは規則正しく譜面が分割されるのではなく 表拍と裏拍の長さが違う・・・いわゆる「揺らぐ」ような感じになるのだが、なぜこのような変化をしてゆくのだろうか bounce_zu_2

それには黒人たちが元々持っていたリズム感覚が元になっているのだと思うo0350035012515898876
ここに1964年にシカゴの「マックスウェルストリート」というところで撮影された映像がある これは「And This Is Free」というドキュメンタリー映画の一部だ この映画はシカゴの中心地にあったマックスウェル通りという場所で商売をするさまざまな人々を撮影していてこの中に多くのブルースマンも登場する その中で最も重要な人物がここに出てくるブルースマン その名は「ロバート・ナイトホーク」以前僕が書いた「僕のブルースマン列伝」にも登場する偉大なシカゴブルースマンなのだが、その彼が路上で演奏している →「映像」

それを多くの人々が見ているのだが大事な部分はもの動画の終り近く1:30あたりから映ってる踊ってる人々・・・とくに白っぽいスカートと花柄の「ワンピースを着た女性たちの動きに注目してほしい
どうだい、これがブルースがなぜあの「ドット・ドット」というリズムなのかがわかる重要なヒントなのだ これについてはまた後に詳しく触れるけど この動きがダンスから音楽に対して大きな影響を与えていたんだ

1950年代のはじめくらいまでは白人と黒人の間のダンスには一見大きな隔たりがあるようには見209えない それは黒人でも少し豊かな層はなるべく白人に近付こうと意識していたようで、たとえば髪の毛にストレートパーマをかけるなんてことも流行っていたらしい(写真は1920~30年代に活躍したブルースシンガー「リロイ・カー」髪の毛を「コンク」と呼ばれるやりかたでストレートに近くしていたようだ)

黒っぽさを目一杯出すのはもっと下層階級のたとえはシカゴのゲットー、ニューヨークのスラム、あとはいまだに南部に残っている黒人だけのコミュニティーに限られていたようだが・・・じつはそこから生まれてきた音楽やダンスこそそのごのアメリカに最大の影響を与えるものに育っていったのだ

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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