僕の吉祥寺昔話  6

「中島飛行機製作所」があった広大な敷地 そこは戦後になると進駐してきたアメリカ軍が接収し、そこに大きな従軍兵士用の住宅施設(キャンプ)を建造した

その名称は「GREEN PARK(グリーンパーク)」この名前はいまでもその町内の名称として残ってc78f6ff1いるがちなみにここの町名は「緑町」、そこは軍人の中でも「士官クラス以上」の軍人とその家族が住むための集合住宅だった

今で言うと高級会員制マンションみたいな感じで、敷地内にはそういう建物が4~5棟 建物の周りには広い敷地が広がっていて駐車場や芝生の広場になっていた

それらの敷地はすべて周囲を高さ3mくらいの金網で囲われていて部外者は一切立ち入ることは20080407095757sできなかったが、金網越しに見えるその風景はそこだけは「アメリカ」だった(写真は現在の横田基地だが、ほぼこれと同じフェンスだった)

敷地内に置いてある車はほとんどが外国登録ナンバーをつけた「アメ車」だったしバスケットボールやローラースケートを抱えて白人や黒人の子20100216_17150880db8356d613237f42735e9a2c281dac4供がきゃあきゃあ騒ぎながら走り回るのを見ているとアメリカに自分が居るような錯覚に襲われそうになるが・・・すべてそれは金網の中のことだった

そこにある日、1人の日本人の青年が雇われてやってきた 戦時中満州でエンジニアの仕事をしていたその男は、グリーンパーク内の変電設備の保守管理の技術者として働きはじめた

その男の名前は 矢島盛男・・・僕の父だ

父がそこで働いていることで僕には特別の待遇が与えられた 軍関係者以外はすべて立ち入り禁止のグリーンパークに「フリーパス」で入ることが許されたのだ

フェンスをぐるっと周って敷地の西側に出るとそこに「ゲート」があった 日本人だが頭に「MP」の380950348.1マークのついたヘルメットを被った憲兵がそこにはいた

僕が近付くと「坊や、何だい?」と訊かれる

「僕、変電所のヤジマの息子です」そう答えると電話で確認をとるph_04_07

「オーケイ坊や、入っていいよ パパは仕事場にいるよ」 とすんなり通してくれる 僕はその”特別待遇”にまるでVIPのような気分で鼻の穴をふくらませながらちょっと興奮しながらゲートをくぐる

一歩入ると・・・そこはもうアメリカだった

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする