仲田修子話  6

そんな品川の街で修子は伸び伸びと豊かな少女時代を送っていた

相変わらず独りで通っていた銭湯 そこは昔ながらの「湯殿造り」という佇まいで当時はほとんどの家に内風呂が無かったのでそこはいつも混んでいた ロッカーなんてものは無かったので着物を脱ぐとそこにある籠に放り込んで浴室に入る お湯はとても熱くてそのままじゃとても入れないので水道の蛇口近くまで行ってこっそり薄めて入っていたそうだ

近所の駄菓子屋に通うのが楽しみだった 当時はまだあったという「50銭硬貨」をひとつ握りしめて出かける 駄菓子屋には普通の駄菓子のほかに季節ごとに「お好み焼き」「おでん」「かき氷」「ところてん」などもありお好み焼きは具材が入った生地を受け取って自分で鉄板に拡げ焼くという形式で、ここが僕の知ってる駄菓子屋と違ったのはそこには狭いながらも数人が座って飲食するスペースもありそこで焼きあがったお好み焼きを食べたり、勝手にその家の座敷にあがりこんでごろごろしたりしてたという

当時は近所の子供たちがどこか他所の家に勝手に上がりこんでも別に怒られもしない そんな大らかな時代だった

ところで、修子の家庭では問題があった 経済的にはまったく困るどころか当時の周りの家に比べても少し豊かな暮らしをしていた仲田家 父親の豊三郎は当時品川にあった工作機械メーカーのエンジニアでかなりのインテリで上品な性格、それに対して母親の千代は新潟の豊かな農家の出身だったが無教養で頭も悪くおまけに性格は最悪だった

まだ修子たちが小さい頃その母からのDVがたびたびあったと修子は語る いきなり発作的に棒などで修子や弟のことを叩く・・・それが頻繁に行われていた そうされて弟の方は恐がって震えていたが修子は「この人間は普通じゃない」と感じていたので気にもせず恐がりもしなかった そういう親子のことを父親も薄々は気が付いて気にしていたようだが、それをとくに咎めるというようなことは無かったらしい

母親との確執というより「バトル」はその後何十年も続くことになるのだが、その話もおいおいとすることにして修子の幼児期の話はこれくらいにしておく

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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