仲田修子話 56

この話は修子が忘れてた・・・のではなく筆者にも語らず隠していた事件で、その理由は本人が「あまりにもヒドくてこの話は人に知られたくない」と思っていたためだが、バンドメンバーの瀬山からのタレこみがあり(笑)「これはゼヒ掲載したい」と筆者が修子を説得して聞き出した話です

その”事件”が起きたいきさつだが、当時修子は虎ノ門病院の8階の「脳外科」の病棟で看護助手として勤務していた 脳外科の教授はその病院の院長でもあった ある日「院長総回診」ということが行われた 「総回診」というのは院長を中心にその部下の医師や看護師などを引き連れ大名行列のように各病室やセクションを見回ることだ そしてその行列がナースステーションの外にやってきたまさにその時、修子の頭の中が発作的にフラッシュバックを起こした それは自分が将来は医者にもなれるかもしれないという希望を持っていた中学時代 そして父親の死によってそれが無残に剥ぎ取られ転落したこれまでの人生・・・それらのことが突然いっぺんに頭の中で爆発したのだ

そのあとのことはほとんど記憶がない ただ突然パニック起こした修子はナースステーションの中にあった医療用の機材が入った高い棚を押し倒し、その他の機材とかを蹴飛ばしたりしてナースステーションを破壊した それは医者というものに対する妬みだったと修子は語る 父親が死ななければ自分は「そっち側」に居たんだ・・・そういう思いが一気に爆発した 周囲は大騒ぎになった・・・はずなのだが修子はそのこともほとんど覚えていない

気が付いたら総婦長のところに修子は居た 「あなたは溝の口の分院の神経科に行ってください」そう言われ修子はその分院に入院ということになった そこでは薬を投与されながら半年間の入院生活を送った ちなみのそのときの修子の待遇だが、入院治療費は無料 おまけに入院している間も給料は支払われていたという

その分院は当時としては進んだ考え方で治療をしていて「混合病棟」といって神経科の患者も他の科の患者と一緒の病棟で入院生活を送っていた たとえば修子のいた4人部屋の病室では彼女以外は「腎臓科」の入院患者だった 病室もまったく開放的で自由に出入りができた

そしてこの病院ではかなり自由行動が許可されてて病院内の卓球施設でほかの患者と卓球したりトランプでポーカーゲームをしたりして楽しんでいた それどころか申請すれば簡単な手続きで自由に外出、外泊ができたという たとえば「2泊します」と言えば別に審査もされず気軽に2泊の外泊ができた それを使って毎週2日くらい外泊して・・・修子はせっせとゴーゴークラブに通っていた

その半年間の入院の後ある日主治医から「もう退院していいですよ」と言われ、もっとそこに居たかった修子はその医師に本を投げつけたがその抵抗も通じず退院・・・ということになった それで修子はまた元の虎ノ門病院本院勤務へと戻った

しかし戻ってからの仕事はナースステーションでの勤務ではなかった 今度は総婦長室で彼女の秘書という仕事をさせられることになった 退院後も「要観察」ということだったのだろう 結局そういうこともあって2年くらい勤めた病院だったが・・・その仕事に飽きてしまった修子は・・・レズビアンクラブの世界へと転職する

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