仲田修子話 160

そこでのカウンセリングはこういう形式だった

テーブルを挟んで座りながら対話形式で行われる 先生はメモを取りながら質問したり話をしたりする

まず最初に「どうしてここに来ようと思ったのですか?」という質問から始まった・・・
修子は自分が辛くてたまらないと訴えた 先生はそれを聞き、こう訊ねた

「何が辛いですか」

「弟が自殺してしまったことが辛いです」

「それを人に言ったことはありますか?」

「ほとんどありません」

「なぜ言わないのですか?」

「誰も聞いてくれないからです・・・」

そう答えた途端、修子はいきなり号泣し始めた 目の前のテーブルにはそれに備えたのか・・・ティッシュが置いてあった

そのときに修子は、感覚としてはタマネギの外側の硬い皮が一気に全部むけた・・・というような気分になった 心の中にずっと閉じ込めていたものが初めて外に出て、今までずうっと自分にのしかかっていた重荷が少しだけ軽くなったような気がした

その後修子は時間をかけて先生に、これまでの自分の生い立ちとか経歴とか苦労した話を洗いざらい話した

そういうことをくりかえしながらそこに通っていると、今度はタマネギの内側を1枚ずつ剝がしてゆくように・・・今までの苦悩が徐々に自分から剥がれ落ちてゆくのを修子は感じていた

そしてそのカンセリングを受けながら並行して修子が金井先生から学んだことがあった

それは「人の話はなるべく丁寧によく聞く 解らないことは率直に質問する」ということだった

その時期と重なるように、蕎麦打ちの技術を身につけていた矢島は八ヶ岳から東京に戻り、吉祥寺の実家で手打ち蕎麦の店「からまつ亭」を営業していた 修子は瀬山を伴ってそこへ足しげく通っていた

来ると色々な料理を矢継ぎ早に注文して、ちょっとお酒を飲み蕎麦を食べさっと帰るという、蕎麦屋にとっては本当に有り難い江戸っ子らしい粋なお客だった
ただ、最初の頃の修子は感情にかなり起伏があり、ときにはイライラして店の常連客と言い争ったり、不安定なところを見せていた
ところが、ある日のこと・・・いつものように店に入ってきた修子の顔を見て矢島は驚いた

修子の表情が・・・それまでとまったく違っていたのだ 何か憑きものが落ちたかのように彼女の顔がすごく穏やかになっていて、優しい笑顔を浮べていたのだ それだけではなかった 時にはちょっと攻撃的にすらなることがあった修子が全くそうではなく、とても包容力のある優しく穏やかな口調で静かに話す人物になっていた・・・それを見た彼は確信に至った

「仲田修子は変わった」・・・と

何が彼女をそうさせたのか、そのときは理由が判らなかったが、その後カウンセリングに通っているという話を聞き、それによって修子の魂が真に苦悩から完全に開放されたんだということをようやく理解することができた

その後修子は彼が店を閉め借金も抱えて、八ヶ岳の工場でかなり酷い労働条件で働いていることを知って、なんとかしてやりたいと思った そして自分のバンドに彼を呼び戻して一緒にライブ活動をしたいとも思った それまで色々なギタリストを入れていたが、どれもイマイチ気に入らなかった それから修子はことあるごとに彼に誘いをかけた

そして大震災があった年の春、ジミー矢島はやっと東京にやってきた 1年は修子らがオープンした店のスタッフとして、その後はペンギンハウスのPAとして彼は働くことになった

その後彼は修子バンドのメインギタリストとして、ずうっと彼女のバックを務めている

高円寺ライブハウス ペンギンハウス

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